名残

mudan tensai genkin desu -yuki

その領地の名は残っていない。
ただ彼女だけはいつまでも、その名を覚えている。



轟音と共に揺れる塔の階段を少女は駆け上がる。
他に人の姿はない。まだ誰もここには到達していないのだろう。ラヴィニアは息せき切って石の階段を走っていった。
外からは微かに悲鳴や怒号が聞こえてくる。小さな窓から見える草原は敵軍の馬蹄によって踏み荒らされており、昨日までの美しさは見る影もなかった。
横目でそれを見たラヴィニアは、一層登る速度を早める。
脇腹が痛い。喉はからからで、体中が汗まみれだ。
だが自分の他に今、自由に動ける人間はいない。 この城に仕える魔法士はたった三人で、そのうちの二人は下で味方の兵たちと共に敵を押し留めている。
一番若いラヴィニアだけが、塔に保管してある魔法具を守る役目を託されたのだ。
残る階段はあと数段。彼女はそれを一息に駆け上がると、預かっていた鍵で扉を開けた。
足を踏み入れた中は小さな円形の部屋で、作りつけの棚には等間隔で魔法具が並べられている。
彼女は部屋の隅にあった麻袋を引っつかむと、その中に次々魔法具を放り込んだ。
爆音が聞こえ、また塔が微かに揺れる。
この城には侵略を打ち払う程の力はない。もう時間がないのだ。彼女は一刻も早く城から逃れ出なければならなかった。

ラヴィニアがこの城に仕え始めたのは三年前、十二歳の時だ。
幼い頃から大きな魔力を持っていた彼女は七つの時、娘の異能を持て余した父親によって捨てられ、小さな盗賊団に拾われた。
その後独学で魔法を覚え、数年間盗賊として暮らしていた彼女が領主の城に仕えるようになったのは、今の師のおかげだとしか言いようが無い。
城に盗みに入って捕まった彼女に、年老いた師は辛抱強く人の生き方を教え諭した。
「魔力を持って生まれようとも人はただの人だ」という言葉に、当時のラヴィニアは大きな衝撃を受けたのだ。
そうして城で暮らし始めてから三年、彼女は師も、自分を受け入れてくれた城の人々も、本当の家族のように慕っている。
だからこそ突然のこの襲撃は、ラヴィニアの世界を変えるに等しいものだった。

「あと少し……っ!」
高い棚の上に陳列された短剣へとラヴィニアは手を伸ばす。
その時、ひときわ強い振動が塔を左右に揺らした。背伸びしていた少女は石床の上に投げ出され、苦痛の呻きを上げる。
しかし痛みに捕らわれている場合ではない。慌てて起き上がったラヴィニアは、ちょうど棚から落ちた魔法具を拾い集めた。全てを麻袋に詰め込んで肩に背負う。
だがそうして扉に走った時、扉は向こうから乱暴に開かれた。
血濡れた剣を携えた敵兵の男は、ラヴィニアを見て鼻で笑う。
「どこに行くつもりだ、小娘」
他に出入り口はない。ラヴィニアは袋を背に庇いながら後ずさった。
この距離では詠唱が終わるよりも、相手が剣を振るう方が早い。そう判断した彼女は、無詠唱で素早く構成を組む。 右手を上げると同時に叫んだ。
「撃て!」
白い閃光が男の胸を貫く。声もなく崩れ落ちた兵士を見て、ラヴィニアは気を緩めかけた。
―――― 直後彼女の体はその場から弾き飛ばされ、空になった棚に叩きつけられた。



意識を失っていたのはほんの数秒のことだったのだろう。
ラヴィニアが顔を上げた時、そこには床に散らばる魔法具を拾い集める魔法士がいた。
見知らぬその男は敵の魔法士であるらしい。ラヴィニアに背を向け、魔法具の一つ一つを検分している。
彼女は咄嗟に攻撃構成を組もうとしたが、ほんの少し指を動かすだけで全身に激痛が走る。声を上げそうになるのをかろうじて堪えた。
ラヴィニアは歯を食いしばって魔法士を睨む。
―――― 魔法具を敵に渡すわけにはいかない。
師曰く、この中には途方も無い力を持ったものもいくつか混ざっているというのだ。
神代の精霊術士が作ったとされるそれらが、魔法具のうちのどれなのかラヴィニアは知らなかったが、ここで諦めてしまう訳にはいかない。
構成を組む集中を取れない彼女は、代わりに近くにあった短剣へと震える手を伸ばした。
苦痛の声は出せない。彼女は上手く動かない指先に全神経を注ぐ。
今頃皆はどのような苦境に立たされているのか、師の笑顔が瞼の裏に浮かんだ。
怒りでも悲しみでもない、もっと原始的な感情が喉をつく。



あと、少し。
もう少しで手が届く。
武器が必要なのだ。力が欲しい。
欲しくて欲しくて仕方ない。
かつて去っていく父親に、何も言えなかった時のように。
埋まらない欠乏を、盗むことで埋めようとしていた時のように。
ただ、欲しい。
世界がどう在ろうとも、もう二度と何かを奪われたくないのだ。



「何をしている!」
魔法士が振り返って声を上げるのと、ラヴィニアが短剣を掴むのはほぼ同時だった。
彼女は鞘に入ったままのそれを手の中に握りこむ。相手の魔法士が短く詠唱するのが分かった。
防御の構成も組めず、体も満足に動かない。絶望的な状況でラヴィニアに出来たことは、ただ短剣に己の魔力を注ぎ込むことだけだった。
許容量を越えて注がれる魔力に、鞘が音を立てて罅割れる。
掌が熱い。
個の輪郭が歪む。
何処までが自分で何処からが違うのか、全ての境界がゆらりと曖昧になった。
魂が四散しそうになる感覚。
だが彼女は恐怖ではなく貪欲さを持って願う。
―――― 欲しい、と。



真っ白に染まった視界が晴れた時、ラヴィニアは部屋に一人きりだった。
敵の魔法士の姿は見えない。ただ男の拾い集めた魔法具だけが床に散らばっていた。
彼女は自分の手の中を見下ろす。
「短剣が……ない」
先程まで確かに握っていたはずの魔法具が何処にも見当たらない。
ただ彼女の掌は薄く金属の粉で汚れており、火薬に似た匂いが微かに鼻腔の奥で嗅ぎ取れた。
何があったのか、我が身のこととして理解したラヴィニアは息を飲む。
「……魔法具を、食らったんだ」
食らって、自分の力とした。その力で相手の魔法士を退けたのだ。
魔法とは、世界に個の意志を反映させることだと師は言っていたが、意志の力が個の境界を捻じ曲げたのかもしれない。
まさかこのようなことが出来るとは思わなかった彼女は、呆然と部屋の中で立ち尽くす。
その時また、地上から轟音が響いた。
「っ、急がないと……」
追いついてきた敵はまだ二人だけだが、早くしなければ増える一方だ。
ラヴィニアは再び袋に魔法具を詰めようと身を屈めた。けれど小さな指輪を拾い上げた時、ふと一つの考えが頭をよぎる。
―――― もし、もっと魔法具を取り込んだなら。
その時彼女は、今よりもずっと強い力を得ることが出来るだろう。そして皆を守れるかもしれない。
敵を追い返し、城を守り。
「また、みんなで……」
ラヴィニアは手の中の指輪に視線を落とす。
肉体も精神もまだ、さっきの感覚を忘れていない。
今ならやれる。
その確信は、魔法を使って盗みを繰り返していた時と同じものだった。
彼女は散らばった魔法具をぐるりと眺め渡す。






「それで、どうなったんですか?」
同じ魔女である知人の問いに、ラヴィニアは軽く自嘲して見せた。空になったカップをテーブルに置く。
「想像出来るだろう。次々魔法具を取り込んでいった私は、最後には暴走した。
 ―――― 後には何も残らなかったんだ。敵も味方も、建物さえもな」
欲しがって欲しがって、失うことを恐れた少女。
彼女はその貪欲さゆえに全てを失い、そして魔女と成ったのだ。
話の偶然で、彼女の過去を聞いたティナーシャは沈黙する。
その重みを払うように、ラヴィニアは笑った。
「昔の話だ。私だけが忘れなければいい。お前もそうだろう?」
「……ええ」
「魔女とはそういうものだ」
返事をしないティナーシャに苦笑して、女は席を立つ。
そのまま店を出た彼女は、よく晴れた空の下、小さな国境の町を見回した。かつてこの場所に建っていた城を思う。
吹く風は何も語らない。記憶には領地の名さえ残っていない。
だが彼女は何一つ忘れないだろう。彼らの名も、顔も、温かさも。
それは全てを失った女が最後に掴んだ、ただ一つの欠片だった。