眠り

mudan tensai genkin desu -yuki

そもそも昨日からの雨で、通るはずだった山道がひどくぬかるんでいたのも原因の一つだろう。
二人は馬を下りて手綱を引き、悪い道を慎重に歩いていた。その途中で、レアリアは見事に転んで泥濘に突っ込んでしまったのだ。
止める間もなく顔からべったりと泥をかぶってしまった女を、アージェは何とも言えない表情で眺める。
「レア……」
「言わないで。分かってるから」
鞍から取った布で顔だけを拭いたレアリアは、悄然とした中にも精一杯の強がりを見せた。
にっこりと微笑んでみせる彼女の頭を、アージェは黙って撫でる。それだけで彼女はたちまちに萎れてしまった。
「ア、アージェ……うう、う」
「うん。俺が悪かった」
いまいちとろい彼女だ。泥濘を歩かせずに鞍の上に乗せてしまえばよかった。
アージェは涙目のレアリアを慰めながら周囲に耳を澄まし―――― 「近くに沢があるみたいだな」と呟いたのである。



「絶対! 覗かないでね!」
ぬかるんでいた山道から少し斜面を下ったところ、ごつごつした岩場の先には小さな川があった。
川原に腰掛け汚れてしまった靴を脱ぐアージェに、泥だらけのレアリアはそう念を押す。彼はまじまじと女を見上げた。
「え? 今更?」
「今更とか言わないの! 駄目なの!」
泥の残る頬が真っ赤になる。レアリアは握った拳をぶんぶんと振り回したが、それは抗議の意思というよりも可愛らしい駄々にしか見えなかった。
何が問題なのか、恋人となってから日も浅い女の心理を汲もうとして、アージェは少し考える。
「別にこんなところでどうこうしようとは思わないけど」
「そういうこと言わないの!!」
―――― 汲もうとしたつもりが失敗だったようである。
顔に余り布をぶつけられ、それを絶対取らないよう命じられた彼は、することもないので大岩に寄りかかり目を閉じた。
一応警戒の為、耳を済ませてはみるが、怪しい音や気配はない。レアリアのさせる水音が断続的に響いているだけである。
雲が晴れたらしく、暖かい日差しが全身に降りそそいできた。心地のよい空気にアージェは欠伸をこぼす。
最近忙しなく移動を続けていたせいか、多少疲れているのかもしれない。彼はまもなくゆったりとした眠りの中に落ちていく。
夢の中で、女の冷えた手が頬に触れた気がした。



目が覚めた時、アージェは体に不思議な重みを覚えて顔の布を取った。
見るとレアリアが、彼に寄りかかるようにして膝を抱えて眠っている。
空が薄紫色に染まっているところを見ると、既に夕方であるらしい。脱いでいた靴は綺麗に洗われ、既に乾いていた。
アージェは女を起こさないよう抱きとめながら、体を起こして周囲を確認する。
「……しまった」
この時間にこのようなところにいては、日が落ちるまでに次の集落には辿りつけない。
今日は野営をするしかないだろう。珍しい失態にアージェは頭を掻いた。
「不味ったな……」
「よく寝てたから、起きないように魔法をかけといたの」
「レア」
寄りかかられても気づかないとはおかしいと思ったが、どうやら彼女の仕業らしい。
きちんと洗われほわほわになっている恋人を、アージェは苦笑で見下ろした。
「これ、もう日が沈むから野営になるけどいい?」
「ええ。水はあるし、夕食を作りましょう」
「じゃあ、寝るところ用意するか」
完全に暗くならないうちに、やってしまわなければいけないことは多々ある。
アージェはレアリアを抱き上げながら立ち上がった。何かの香料を使っているのか甘い香りのする女に囁く。
「で、どうこうしていいですか?」
「駄目です!」
即座に釘を刺されてしまった以上、本当に手を出しては怒られてしまうだろう。
アージェは少なくない残念さを噛み殺すと、彼女をその場に下ろし薪を集めに向かったのだった。
昼寝をしすぎたせいか、夜は眠れなかった。