暗号

mudan tensai genkin desu -yuki

一つ一つ丁寧にノートへと綴る文字は、雫にとって十八年間まったく縁のなかったものだ。
すなわち―――― 異世界の文字であるそれらを一瞥して、彼女は溜息をつく。
「まるで暗号みたいですよね」
「君にとってはそう見えるのかもね」
テーブルの向かいに座る男は、この旅の同伴者である。
突然異世界に放り込まれた雫が、元の世界に戻る為に模索している旅路。その途上において、彼はよき教師であり先導者であると言えるだろう。もっとも彼のアドバイスは、端的すぎて的を外すことも多い。
雫はぬるくなったお茶をすすった。
「あー、もっと前からこの字を知ってればなあ」
「前からって?」
「元の世界にいた頃から、ですかね」
「無理だね」
「そうなんですけど」
元の世界にいて、この世界の言語を知る術などないはずだ。
意味もなく不可能な希望を口にした雫は、ペンの反対側でノートを叩いた。
「多分、今って私、元の世界で行方不明扱いだと思うんですよ」
「二世界間の時間の流れが等速であればそうだろうね」
「違ってたら浦島太郎ですか」
「ウラシマタロウって何?」
「説明すると面倒なことになりそうなので省略です」
エリクに話しても、大体が曲解されると決まっている。雫は強引に話を元の地点に戻した。
「行方不明になってると、こう……捜査されたりするわけですよ。
 聞き込みをしたり、持ち物を調べたりして事件に巻き込まれてないかとか」
「なるほど」
「つまり今頃私の部屋は家捜しされてるんじゃないかなーと……」
「大変そうだね」
「大変なんですよ! ノートとか全部こっちの言葉で書いてあればよかった!」
雫の部屋をどんなにひっくり返しても、失踪の原因がわかることはない。
むしろ私文書を見られて彼女が恥ずかしいだけだ。
日記をつけていなかったことと、携帯は自分で持ってきていることは、せめてもの救いだが、だからといって部屋を見られて嬉しいことはない。雫は頭を抱えてテーブルの上で悶絶する。
「あああもう部屋燃やしてくればよかったあああああ」
「君、目的を見失ってない? 帰った時困ると思うけど」
「……エリクとか、自分の部屋探されても気にしなそうですよね」
「置いてある資料を破損しないでくれるなら特に気にしない」
平然とした返答は予想内のものだ。そもそも彼のプライベートなどまったく想像できない。存在しないのかもしれない。きっと存在しないのだろう。
雫は手の中でくるくるとペンを回した。
「エリクのそういうところ羨ましいですよ」
「君もそうなればいい」
「無理です。手遅れです。むしろエリクが私の世界来ればよかったのに」
「確かに興味がある」
毒にも薬にもならない会話は、ちょっとした気晴らしになるだけだ。
雫はひとしきりぶつぶつと文句を吐き出すと、改めて勉強に精を出すことにしたのだった。
後に実家には帰れたが、部屋から回収されたノートについては放置した。