終末

mudan tensai genkin desu -yuki

分厚い教本は、しかし彼女の片手に充分収まる大きさだ。最初から持ち運びすることを考えて作られたのだろう。
それを左手に抱えて開きながら、ミルザはまとめの言葉を述べる。
「というわけで、神の教えは我々に正しく生きる道を説いているのだ。分かったか、兄」
「―――― ああ、途中から聞いてなかった」
「…………」
そうでないかとは思ったが、実際聞くとふつふつと腹の底から腹立たしさがこみあげる。
ミルザは黙って教本を閉じると、それを腹違いの兄に向かって「ふざけるな!」と投げつけた。

自分に兄がいると分かった時には色々と複雑な感情を抱いたものだが、今になってみるとその大半は、兄のいい加減さへの怒りに払拭されてしまった気がする。
角が曲がってしまった教本を直すミルザに、頬杖をついたアージェは乾いた声をかけた。
「お前も教本投げるとか、大分いい加減になってきたよな」
「誰のせいだ!」
「自分のせいだろ」
しれっとした態度は、もう一度教本をぶつけてくださいと言わんばかりのものだが、そう言われてしまった手前もう投げられない。
苛立ちを噛み殺しつつ、少女は兄の向かいへと座った。指で机を叩いていた青年が顔を上げる。
「なあ、ミルザ」
「なんだ?」
「たとえばの話……一人とその他大勢を天秤にかけるなら、どっちを選ぶ?」
「は?」
何かと思えば随分感傷的な質問だ。
兄らしくないと思いつつ、ミルザは一応真剣に考えてみた。ほんの数秒で答を出す。
「一人がどのような人間かによるだろう」
「あ、そりゃそうか」
「馬鹿か兄は。ちゃんと考えろ」
「悪い悪い。じゃあ、自分にとって一番優先度の高い人間、で」
「なるほど。陛下か」
即答で主人を挙げると、アージェは一瞬嫌そうな顔をした。
自分が意図している相手を見抜かれたと思ったのだろう。しかし青年はすぐに元の平坦な表情へと戻る。
「で、お前はどうする?」
「陛下を選ぶに決まっている」
「大勢の命と引き換えでもか?」
「はあ?」
随分粘度のある質問だ。まったくもって彼らしくない。
だがしかし、意外性のある仮定をしつこく聞いてくるのだから、何かしらの意味はあるようだ。
ミルザは今度は時間をかけて考える。理想と建前、現実と妥協を天秤にかけてみた。
結果として、煮え切らない答を呈する。
「……人数による」
本当は、何がなんでも主人を優先すると言いたいのだが、現実問題それで何もかも通せるかと言ったら難しい。
実際、大陸に住む全員の命と主人を比べた場合、主人一人を選べる自信はないのだ。
かといってそのような状況になっても主人を捨てられるわけではない。行き着くところは「どちらも選べない」だ。
そう付け足すミルザに、アージェは頷いた。
「そうか。やっぱそうだよな」
「どうしたのだ、兄。おかしなことを聞いて」
「いや、お前の意見を聞いておきたかった」
「……どういう風の吹き回しだ」
冗談かとも思ったが、兄の表情を見るだにそうではないようだ。
おそらく絵空事のようなこの命題は彼にとって、重要な意味を持っているのだろう。
それがどういう意味かは分からないが、ミルザはなんとなくそう思う。
彼女は立ち上がると、横を通りざまに兄の頭をそっと撫でた。
「よく分からんが、何かあったら話は聞くぞ」
「ん」
「たまには兄も悩んだ方がいいとは思うがな」
普段の彼は、反射で動いているとしか思えない。
ミルザは空になってしまったお茶のカップを手に、部屋を出て行こうとした。扉に手をかけた時、兄の呟きが聞こえる。
「―――― かかってるのが命じゃなきゃ、別にいいな」



何を考えているのかいまいち分からないが、いずれにせよそう間違った結果にはならないだろう。
そう信じるくらいには、ミルザは腹違いの兄に信頼を置いている。もっともそんなことは一生口にしないかもしれない。
気紛れめいた感情で唇を上げて、少女は城の廊下を歩き出す。
磐石と言われる神の国。そこで生きる彼女はこの時、まだ何も予感していなかったのだ。