mudan tensai genkin desu -yuki

寝ている時に、胸の上を何かが踏んでいった気がする。
軽い、小動物の足の感触。それはオスカーの意識を急激に眠りの中から引き上げた。
覚醒まであと一段階というところで、戻ってきたそれがもう一度彼の胸を踏む。
オスカーは反射的に通り過ぎようとするそれを、手で鷲づかみにした。
「こら、ティナーシャ」
柔らかな毛玉を、オスカーは掴んで目の上にかざす。
そこで彼は、大きな緑色の瞳と目が合った。子猫はびっくりした顔で、自分を捕らえた人間を見つめる。
―――― その毛色は綺麗な縞模様だ。
「……ん?」
寝台の隣を見ると、そこには彼の妻がまだぐっすりと眠っている。
つまりはこの猫はただの猫だということで……オスカーは体を起こすと、「何処から来たんだ」と見知らぬ子猫に誰何した。

終わりの見えない旅を続ける二人は、休養の為に戻る屋敷を除いて、一つところに長居をするということがあまりない。
いつも適当な宿を見繕っては二日か三日滞在しているのだが、このような闖入者は初めてだ。
オスカーは手の中でじたじたと暴れる子猫を見つめた。
「結界に穴でもあったか」
部屋には侵入者を防ぐ結界を張ってあるのだが、小さな穴でも開いていたのかもしれない。
だがティナーシャに確認するとしても、彼女はすぐには起きてこないだろう。
オスカーは子猫を窓辺に置くと着替えを済ませたが、人に慣れているのか小さな縞猫は逃げ出したりはしなかった。
むしろ餌を貰えるのだと期待している節がある。じっと見つめてくる緑の目に、オスカーはこめかみを掻いた。
「仕方ない。一緒に行くか」
先程と同じように子猫を背中から鷲づかむ。
共に食堂に行って食事を始めた彼は、しかしまもなくスープまみれの猫を掴んで、部屋に戻ることになったのだった。

「洗うんですか!?」
「他にどうするんだ」
寝ぼけ眼だったティナーシャは、お湯を頼まれた理由を聞いて、瞬間で目を覚ましたらしい。
夫とスープまみれの子猫を順番に見やる。
「なんでそんなことに……」
「スープ皿に飛び込まれた。お前の挙動に慣れていて油断した」
「あの、私一応人間ですからね……。いえ、人外ですけど」
頭の上で交わされる会話に、子猫は暴れもせず掴まれたままだ。
まん丸に開かれたままの目は、己の状況が飲み込めていないのかもしれない。
ティナーシャは、スープの滴る尻尾を気の毒そうに覗き込んだ。
「濡らした布で拭けばいいじゃないですか……」
「それだと臭いが落ちないだろう。―――― まぁ俺に任せておけ。猫洗いに関しては熟練した」
「……はぁ、そうですか」
物言いたげな女は、しかしそこで引き下がることにしたらしい。服を羽織ながら、部屋の中に桶とお湯を転移させた。
わくわくと縞子猫を桶に入れようとする夫を、ティナーシャは半眼で眺める。
次の瞬間、宿の部屋には、子猫の絶叫が響き渡った。



十五分後
「で、何が熟練したんですか?」
「…………」
「もう分かってると思いますけどね、私は我慢してるんですよ。我慢してじっとしてるんです。
 普通の猫は嫌がるんですよ。逃げるんです。身に染みました?」
オスカーは無言で部屋の中を見回す。逃げ出した猫の暴れまわった後は、すっかりお湯が飛び散りびしょびしょになっていた。
途中から見かねて介入したティナーシャは、膝の上で眠る子猫の背を撫でている。
「大体貴方は猫に好かれがちですけどね、それは猫の嫌がることをしない範囲でなんですよ。
 そもそも最初に私を洗いだした時、『普通の猫は嫌がる』って自分で言ってたの忘れたんですか?」
「そう言えばそんなことも言ったな……」
何と言われても、手に引っかき傷を作ってしまった身では反論のしようがない。
傷はすっかり治されているが、治した当人はこれを幸いと何本か釘を刺しておくつもりのようだ。
オスカーはこんこんと為される訴えに、ただ頷いていく。

二日後、縞子猫は数枚の金貨を添えて、宿に預けられた。
猫洗いの道程は、まだまだ長いようである。