繋いだ手

mudan tensai genkin desu -yuki

「式をするか」と聞かれた時、アージェはその判断を彼女に委ねた。
彼女は「否」と言った。そう答えるだろうと分かっていた。

小さな家は持ち主の好意で借り受けたものだ。
昨年までは人が住んでいたというそこを、一通り見て回ってきたアージェは、家の戸口で所在なげなレアリアの元へ戻ると中を示した。
「いくつか外で壊れてるところがあるから、直して掃除する。レアは宿にいるか?」
「ううん。手伝う」
彼女は微笑んだが、その顔色はあまりよくない。
それは身篭っているせいもあるだろうが、精神的なことも無関係ではないだろう。
拭えない負い目を持つ彼女は、自分に子供を生む資格があるのか、確信を持てないでいるのだ。
その葛藤を察したアージェは今までにも何度か肯定を口にしていたが、レアリアの瞳の憂いは薄らいでも、完全に消えることはなかった。
おそらく一生そうなのだろうと、思う。

「無理するなよ。ちょっとでもしんどかったら休んでて」
「分かったわ」
掃除をするという彼女を家の中に残し、アージェは外壁を修理しに出て行った。店を巡り必要なものを買い揃えてから一つ一つの箇所を修理していく。
屋根まで含めて全ての手直しが終わった時、日はもう傾きかけていた。
家の中に戻ったアージェは、燭台を手に薄暗い部屋を覗き込む。
「レア?」
床を照らしてみれば、埃やくすみは綺麗に拭われていた。
むしろ無心に磨き続けたのではないかと思う程、厨房も居間も綺麗になっている。荷物さえ持ってくれば今夜からでも住むことが出来そうな程だ。
だが明かりのついていない家の中は人の気配に乏しく、最後に寝室へと足を踏み入れたアージェは、そこで壁に寄りかかっているレアリアを見つけた。
右手を腹にあて、窓から空を見上げている彼女はアージェに気づくと苦笑する。
「ごめんなさい、気づかなくて……」
「別にいいよ。それより大丈夫か? 完璧に掃除してあったけど」
「うん。手を動かしているのが好きなの」
彼女はそう言ったが、それが真実ではないだろう。手を動かしていれば考え事をしなくて済むわけではない。
アージェは燭台を机の上に置くと、彼女を手招いた。
「レア、ちょっと」
「何?」
寄ってきた彼女は、ひどく不安げな目をしていた。窓から差し込む落日が金の髪に赤みを持たせている。
だがその光はまた繊細な貌に昏い翳を落としており、青い瞳も今は黒に近く見えていた。
アージェは、ぎこちなく微笑む彼女を見下ろすと、脇に抱えていた袋を開ける。中のものを広げてそっと女の小さな頭に被せた。
純白の薄絹。何の装飾もされていない布を、レアリアは驚いて見やる。
「これ……」
「式要らないっていうから。代わり」
花嫁の被り布は、彼が育った村に伝わる風習だ。今いるこの国にはそういったものは存在しない。
だからアージェは、布問屋に説明してそれに使う絹だけを取り寄せてもらっていたのだ。
床につく程に長い絹布の端を、レアリアは手に取る。彼女が黙していたのはほんの数秒で、すぐに小さな嗚咽が零れた。
「ア、アージェ……ごめんね……」
「なんで」
「だって、わ、私じゃなかったら……」
細い指が被り布をきつく握る。
本当ならばそこには、細やかな刺繍が加えられているものなのだ。花嫁は嫁ぐ相手の為に、一針一針想いを込めて被り布を飾る。
だがアージェの妻になる彼女にはそれがない。
何も持たないレアリアは、そんな自分を娶らなければいけない青年に、心底申し訳ないと思っているようであった。綺麗な顔を涙でくしゃくしゃにして「ごめんね」と呟く。
アージェは苦笑すると彼女の頭を抱き寄せた。
「なんでそんなこと気にするんだよ」
「で、でも」
「いいよ。俺言ったことあるだろ。俺の村は俺の村。レアはレア。関係ない」
―――― 詫びさせる為に買ったわけではない。区切りをつける為に贈るのだ。
すすり泣く女のか細い背中を撫でて、アージェは囁く。
「そんなに気になるなら、これから針を通せばいいだろ」
「こ、これから?」
「そう。別にどれだけかかったっていいだろ。―――― 娘が生まれたらあげればいい」



不変など必要ないと、楔は言った。
人の世はおのずから動いていくのだと。
だから、彼女も変わって構わないのだ。アージェはそう思う。動いていく時の中の一人として思いを次へ繋げばいい。
たとえそれが許されぬことなのだとしても、自分だけは肯定し続ける。
楔を排した人間だからこそ、立ち止まらず歩き続けていくのだ。



アージェはレアリアを抱く手に力を込める。
神に誓う言葉はない。温かい涙が絹布を濡らす。
この慰めが欺瞞だと思われるのなら、それでも構わない。生きていく為に必要なものはやはりあるのだ。
彼女の両手が彼の胸の上に置かれる。
「……アージェ」
「うん?」
「ありがとう」
掠れた声は少し無理をしているようにも聞こえた。彼は黙って、妻となった女に口付ける。



レアリアが何を考えているか、大体を察することは出来る。
だが全てを理解することは出来ないのだろう。二人はそうして、寄り添って離れながら同じ道を歩いていく。
お互いの手を取って。その手が喪われる最期の日まで。
いずれ終わる道程を長いとは、アージェは思わなかった。