その日まで

mudan tensai genkin desu -yuki

一日に彼女が処理出来る仕事の数は、残念ながらどれ程足掻いても有限だ。
全て綺麗さっぱり終わらせてしまいたいと思っても、手強い案件が次から次に飛び込んでくる。
だが、だからといって時間をかけていては、いつまで経っても混乱が収まらないだろう。
すっかり日も暮れた道を、未処理の書類を抱えて帰路につくアナは、空に浮かぶ月を見上げてほっと一息つく。
「つかれた……」
ケレスメンティアの滅亡後、イクレムの属領となったトラインに移住した彼女は、そこで文官の仕事に従事していた。
避難してきた民や捕虜たちに対応して制度を作り、彼らを新しい生活に落ち着かせるという作業。
大雑把にいってしまえばそれだけの仕事は、けれど人々の間に残る禍根や気質の違いにより、次々と細かい問題が沸いてきて一向に終わる気配が見られない。
本来騎士であった彼女は、数年間ケレスメンティア城都に住んでいたという前歴を見込まれて仕事に加わっているのだが、自ら志願して参加したという意欲を差し引いても、多忙による疲労が心身を如実に蝕みつつあった。
夜道を行く足取りが自然と重くなっていることに気づいたアナは、慌てて首を横に振る。
「いけないいけない」
気分を落ち込ませては、疲労が倍増してしまう。
第一、今の状況は彼女が望んでいた未来なのだ。忙しいのは充実しているからで、忌避すべきことでもない。
―――― そんなことを考えて気を取り直しているうちに、彼女は新しい家の前に着いていた。

「ただいま戻りました」
部屋の中に入った途端、香ってくるのは温かいスープの匂いだ。
ほっと安心出来る空気。テーブルで色つきタイルの選別作業をしていた夫が顔を上げる。
「おかえり」
城都からトライン領へと共に移り住んだセノワは、立ち上がると夕食の仕度を始める。
その背につい見惚れていたアナは、はっと我に返ると書類を置いて手伝いに取り掛かった。
手を洗って隣に並ぶ妻に、セノワは穏やかな微笑みを返す。
「どうだい? 何か困ったことはある?」
「大丈夫です。件数が多いだけですから」
―――― そう遠くない日に、きっと皆が落ち着いて暮らせる日が来る。
そしてその後は、ようやく大陸は終わりない闘争から解放されるのかもしれない。
先のことを考えると、アナの胸にはじわりとした期待が広がる。
気分が上向きになってきた彼女は、鼻歌混じりに盛り付けがなされた皿を手に取った。

二人だけで囲む食卓。この平穏で平凡な暮らしを祖国の人間が知ったなら、驚く者たちは数多いるだろう。
ケレスメンティア攻略において大いなる貢献をした彼らは、けれど本来の身分を取り戻さないままだ。
欲しかったものは名誉でも賞賛でもない。
王族ではなく画家であることを選んだセノワは、特にその意識が強いのだろう。アナの仕事を家で手伝うことはあったが、イクレムの人間の前に顔を出すことはまったくしなかった。
食事をしながら妻の話に相槌を打っていたセノワは、会話が途切れるとふと壁にかけられた絵を見やる。
「そういえば、彼は見つかったのかい?」
「……いえ」
ほんの一時、二人の家に来て剣の修行をしていった青年。ケレスメンティアの騎士だったという彼は、あの混乱の中どうなったのか。
アナは密かに彼が無事であればいいと願っていたが、捕らえた捕虜や降伏した兵たちの中に、彼の姿は見つけられなかった。
後は逃げたか、既に戦死しているのかもしれない。
ディメント・レスンティアで死亡したケレスメンティア兵は数万に及ぶが、彼らの遺体は多くが記録だけを残して、疫病を防ぐ為に既にまとめて埋葬されていた。
もしかしてあの青年もその中にいるのだろうか。アナは重い息を飲み込む。
テーブルの向かいから彼女を見つめていたセノワは、何かを考え込むように眉を寄せた。
「彼は、左手に手袋をしていたね?」
「え? ああ……そう言えば、そんな気もします」
アナは手合わせをしていた時の相手の格好を記憶の中から手繰ったが、剣を取る人間が手袋をしているのは別段普通のことだ。
何故そのようなことを確認されるのか、彼女は首を傾いだ。
「あの、それがどうかしましたか?」
「いや」
セノワの口調は珍しく歯切れが悪い。彼は何かを迷っているようにも見えたが、すぐにいつも通りの微笑を見せた。
「何でもないよ。―――― 彼が無事であることを祈ろう」
「ええ」
戦争は終わった。大事なのはこれから何を為すかだ。
いつまでも過去を振り返っていては、残る者を救う機も逸してしまうかもしれないだろう。
アナはそう気分を切り替えると、仕事に取り掛かる為、空になった食器を片付け始めた。セノワが立ち上がってそれを手伝う。
道の先は、まだまだ見えない。
だが途上に浮かぶ希望は彼女の目に、以前よりもずっと明るく見えた。