mudan tensai genkin desu -yuki

部屋の中はいつもよりも音が無く感じられた。
何も棲まぬ湖底を連想させる空気。それはきっと昨日から降っている霧雨のせいだろう。
温められたカップに口をつけたエウドラは、窓硝子にまとわりつく小さな水滴を見て溜息をついた。無彩色の空を眺めてぼやく。
「何だか気が滅入るわ」
「姫がですか。珍しいですね。医者を呼んできましょうか」
「怒るわよ」
間髪入れず余計な口を挟んできた青年に、彼女は白い目を向けたが、これくらいで堪えるような相手ではない。
慣れた手つきでお茶の給仕をしているシスイは、いつも通りの笑顔で「失礼しました」と目礼した。
その手が白い皿に果物を切り分けて盛っていくのを、エウドラは漫然と眺める。
「お前は陽気に影響されたりしなそうね」
「どうでしょう。影響されている分を分からないよう修復しているだけなのかもしれませんよ」
「表面が変わらないのならば同じだわ」
いい加減長い付き合いだ。シスイのそのような発言は、言葉遊びに過ぎないと分かっている。
第一彼は、これだけの長い付き合いにもかかわらず、今まで一度も彼女に感情的なところを見せたことがないのだ。
そのような人間が陽気くらいでどうにかなるとは思えない。
エウドラは幼馴染の鉄壁ぷりを忌々しく思い―――― ふとあることを思い出した。
「そう言えばお前、サント家の令嬢に付きまとわれていたのではなかった?」
「あー、そんなこともありましたね。ってどうして姫がご存知で?」
「女官たちが噂していたのよ」
平穏な宮廷内では、つまらぬ噂が一つの娯楽になるのだ。
エウドラ自身、普段はさほどそういった話を気には止めないが、話題の主がシスイとあっていつか話の種にしようと覚えていた。
しかし青年本人は、しらっとした表情のままである。
「あまりそういう話に興味を示されると、イルジェ殿下に叱られてしまいますよ」
「イルジェを気にしてたら何も出来ないわ。それで、どうなったのよ」
「どうなったとは?」
「その娘と。うまく行っているの?」
「別に何もないです。個人的な付き合いはしていません」
「……つまらないわ」
幼馴染に恋人が出来たのなら、少しは弱味も掴めるかと思っていたのだ。
しかし今のところその機会には恵まれないようである。鬱屈とした気分から抜け出し損ねたエウドラは、紅い唇を尖らせた。
「本当につまらないわね……」
「そんなことを言われても」
「どんな娘ならいいの? せめてそれをはっきりさせなさいよ」
「姫、退屈なんですね」
「そうよ」
悪びれず言い放つとシスイは肩を竦めた。そのような時は少しだけ彼の本音が見える気がして、エウドラの溜飲も下がる。
青年は果物の皿を彼女の前に置くと、濡れた刃物を布で拭った。
「―――― 特にないですね。別段恋人が欲しいとも思いませんし」
「そうなの?」
「女性に幻想を抱いていないもので」
「……随分な言い様ね」
辛辣とも言える返答は、しかしそのままの意味でしかないのだろう。シスイは穏やかに微笑する。
「現実を受け入れられる程、器が大きくありませんから。
 雨が降らなければ降らないで困りますが、進んで外に出て濡れたいとは思わないだけです。姫もそうでしょう?」
「何それ」
これもまた言葉遊びなのだろうか。
はなから付き合う気のないエウドラは、まだ青みの残る果実を口にした。酸味が心地よく舌の上に広がる。

雨の音はしない。彼女は薄いヴェールをかけたような外を見やった。
「でも、たまにならば濡れてもいいと思わない?」
「後始末が面倒なので嫌です」
「お前ね……」
―――― 彼相手にまともな返答を期待しても無駄だ。
大きく溜息をついてお茶を飲むエウドラに、シスイは真意の見えない笑顔になる。
「そうですね。姫が濡れてたら取り込みに行ってもいいですよ」
「人を物のように言わないで頂戴」
「やっぱり部屋の中がいいですね」
減った分だけ注がれるお茶は、いつも同じ温度だ。
エウドラは心地よい温かさに鬱屈を溶かして、普段通りの午後を飲み干したのだった。