ふたり

mudan tensai genkin desu -yuki

あの日、倒れた王妃に真っ先に駆け寄ったのはシルヴィアだった。
彼女はそもそも最初からティナーシャについて街に出ていたのだ。
城都に不審な瘴気が沸いているという報告を受けて、動員された宮廷魔法士は十二人。そのうち王妃と最初から最後まで共にいたのはシルヴィアだけだった。
だから彼女は間近で、瘴気に飲まれ、それを打ち払うティナーシャを見ていた。
倒れ伏した王妃に駆け寄って抱き起こした時、シルヴィアは世界がぐらりと傾ぐような感覚に襲われていた。



彼女の勤めるファルサスの城は広い。
それは誰しもが認める事実であったが、今のシルヴィアには事実以上に城のそこかしこががらんとして感じられた。
まるで隅々まで空虚が広がっているような感覚。それは、城内が以前と変わってしまった為のものだろう。
いるべき人間がいないという現実は彼女にとって、目を逸らすことも出来ない欠落だった。 その欠落はあまりにも大きく広がりすぎて、シルヴィアは進むことも戻ることも出来ぬまま、ただ一人同じところに立ち尽くしている。
その日も仕事を終えた彼女は、使われてない講義室に入ると椅子に座りぼうっと辺りを見回した。
誰もいない広い部屋には夕焼けの赤い日が斜めに差し込んでいる。
鮮烈な落日によって生まれる影を、シルヴィアは焦点の定まらぬ目で見つめた。

―――― 呆然自失していた訳ではない。
ただ講義室の後ろの扉が開いて人が入ってきた時、室内は既に真っ暗になっていたにもかかわらず、シルヴィアは元の席に座ったままだった。
やって来た人間はそこに彼女がいると思わなかったらしく、明かりを灯してすぐぎょっとした気配が伝わってくる。
「こんなところで何をしてるんだ」
「……レナート」
彼女の同僚である男は、振り返ったシルヴィアを見て少しだけ眉を上げた。
暗い部屋にいる女が泣いていることに気づいたのだろう。だが彼はそれ以上表情を変えることもなく、いつもと変わらぬ調子で言う。
「そろそろ帰った方がいい。明日に障る」
そう言う彼は、物を取りに講義室に来たらしい。備品が納められている戸棚の中から何かを取り出すとそれを懐にしまった。
シルヴィアは声を殺して彼が立ち去るのを待つ。



ティナーシャがいなくなってから、城内はすっかり変わって見えた。
そう思うのは、シルヴィア一人ではないだろう。王は笑わなくなった。パミラは城を去っていった。
何もかもが少しずつ変わって―――― だがレナートは、変わらないままに見えた。
大切なものを失ってなお変わらないでいるということは、きっと難しいことなのだろう。
少なくともシルヴィアは、彼が己の忠誠の為にそうしているのだということを、知っていた。



出て行ったと思った彼が戻ってきたのは数分後のことだ。
両手にカップを持ってきたレナートは、それを無言で彼女の前に置く。
温かいお茶を湛えた白いカップは普段談話室に置かれているもので、シルヴィアは小さく嗚咽を零した。憂いなく幸福であった頃のことが蘇る。
俯いたままぽたぽたと涙を滴らせる女の隣に、レナートは座った。
「たまには吐き出すといい」
落ち着いた声。
人の苦渋を知っていながらそれを見せない声に、返すべき言葉は一つしかない。
シルヴィアは歯を食いしばり息を整えた。掠れて裏返りそうになる声を吐き出す。
「ご、ごめ……ごめんなさい」
「何を謝るんだ」
「でも、わ、わたしが、わたしがあの時……」
―――― 本当ならば、王妃の盾になるべきは自分だった。
その為の宮廷魔法士だ。主君に守られるのではなく、主君を守る為に存在する人間だ。
だがシルヴィアは、ティナーシャと共にいるうちにいつしかそのようなことを忘れてしまっていたのだろう。
ただ美しい王妃を憧憬の目で見上げ、その後についていくだけの人間。まるで何も出来ぬ雛のように、彼女はあの時も王妃の後ろにいたのだ。
もし自分が前に出ていたら―――― その問いを何百回したかは分からない。
ティナーシャのことで誰もシルヴィアを責めなかった。そのことがより一層、彼女の自責を強くしていた。

しゃくりあげるシルヴィアの隣で、レナートはカップに口をつける。
そのまま何も言わない彼の気配を感じながら、彼女はただ泣いた。
泣きすぎて頭が割れてしまうのではないかと思い出した頃、彼は空になったカップを手に取る。
レナートはそのまま何も言わぬまま立ち上がると、シルヴィアの頭を軽く撫でていった。



彼は多くを言うことはしなかった。彼女も分かっていることを口に出す性格ではないのだろう。
ただその日から彼は、シルヴィアが泣いていると隣にいてくれるようになった。
慰めるわけでも責めるわけでもないその空気が、彼女には何よりも有難かった。



ティナーシャが生きていたとの知らせを聞いた時、崩れ落ちそうな程に喜んだシルヴィアが次に抱いたものは、彼への後悔の念だ。
彼女は我に返ると、知らせを持ってきてくれた男に向かって思い切り頭を下げる。
「ごめんなさい!」
「どうしたんだ、シルヴィア」
「い、今までぐだぐだにつき合せて……重かったよね。ごめん」
本当ならば彼の方こそ言いたことが山ほどあったのだろう。
だがレナートは終始何も言わなかった。ただ彼女の重みを分け持ってくれただけだ。
それがどれだけ面倒なことだったのか、完全に想像することは出来なくても薄々分かる。
頭を下げたままのシルヴィアは、けれど苦笑の気配と共に肩を軽く叩かれた。
「別に気にすることでもない」
「でも」
「本当に気にする必要はないんだ。俺も助かっていたところがあるからな」
「助かってた?」
顔を上げると、彼は困ったような微笑を浮かべている。そのような表情は珍しく思えて、シルヴィアは不思議な感慨を抱いた。
普段から滅多に感情的なことを口にしない男は、視線を窓の外に転じる。そこにはいつもと変わることのない薄青の空が広がっていた。
「あの方の不在を悲しんでいる人間がいる―――― そのことにずっと支えられていた。
 俺は元々ファルサスの人間じゃないしな。自分の分まで吐露してもらっている気がしたよ」
淡々と聞こえる声は、半分は彼女を気遣っての嘘なのかもしれない。
だがやはり、彼の本当なのかもしれない。
それがどちらか……どちらであるとしても彼の優しさに変わりはないだろう。
シルヴィアは咄嗟に、仕事に戻ろうとするレナートを呼び止めた。
「ね! あの」
「なんだ?」
「また……話、聞いてもらってもいい? 今度はもっと普通のこと話すし、あなたの話も聞くから……」
―――― そうして今度は、彼自身と向き合ってみたい。
何故か赤くなる頬を押さえるシルヴィアに、レナートは笑った。
「分かった。いつでもいいぞ」
その笑顔は初めて見る、彼の素顔に思えた。


隣にいることで支えられ、向かい合ってお互いを見つめる。
それが彼らの一生になるのは、その後まもなくのことだった。






「で、レナート。どっちから申し込んだんですか?」
「どちらともなく、でしょうか。話の流れで」
「もっと正直に!」
「いえ本当に……」
「もういいですよ、シルヴィアに聞いてきます」
「…………ティナーシャ様」