拷問

mudan tensai genkin desu -yuki

白い素足は、血に汚れた石畳の上を歩いているというのに染み一つついていなかった。
窓の無い小さな牢獄。拘束用の鎖はとうに砕け散り、床のあちこちに破片が落ちている。
女はそれを気にもせずに、ふわりと宙に浮き上がった。獄吏が震える手で構える長剣の上へと、音も無く降り立つ。
足の指で剣の刃を挟んで立つ彼女は、くすくすと笑いながら獄吏を見下ろした。
「それで? 何をしてくれると言うんです?」
「こ、この魔女めが……」
返された言葉は、罵倒にしては心許ない。
あっさりと叩きのめされた仲間の姿に、既に心が折られてしまっているのだろう。
自ら辺境の城砦へと捕らえられたティナーシャは喉を鳴らして笑った。
歌声にも似たその声に呼応して、足場としていた剣が砂となり石畳に落ちていく。
そのまま空中に留まり続ける魔女は、燃えるような闇色の目で獄吏を射抜いた。
「気が済みました? では、私の番ですかね」
「……何をするつもりだ」
「大したことではありません」
残酷な笑みを浮かべていた彼女は、そこで血に飽いたのか、冷めきった表情になる。
彼女は石の壁越しに南の方角を真っ直ぐ指さした。
「城から将を一人、ここに呼びなさい。私をその人に会わせてくれればいいです。
 ―――― 勿論、私がどういう生き物であるかは全て伏せた上で」
いいですね、と魔女は獄吏に釘を刺す。
その目は底の無い闇に繋がっているようで、男は頷く以外に何も出来なかった。



表向きは兵の訓練ということで城から招聘された将軍は、幼い王女の片腕として名高い男だった。
武勇のみならず万事に優れた才を示しているその男は、牢獄に案内されるなり中を見て苦笑する。血濡れた床に立っているのが嫌なのか、天井に寝そべっている女に向けて手を差し伸べた。
「何も牢にいたままでいることもないだろう」
「だって、そうでないとまたあの女に勘付かれたりするじゃないですか。
 今度戦闘になったら大陸沈みそうですからね。ルクレツィアに怒られます」
頬を膨らませたティナーシャは、だが男に抱き取られるとうって変わって穏やかな笑顔になった。細い両腕を伸ばして彼を抱きしめる。
恐怖で城砦を支配している魔女の意外な顔に、後ろにいた獄吏は顔色をなくしたが、すぐに「下がってろ」と言われてその場を後にした。
邪魔者のいなくなった牢獄で、ティナーシャは久しぶりの安寧を味わう。
男の大きな手がその髪を撫でていった。
「悪いな、我慢をさせて」
「別にいいです。元はと言えば私のせいですし」
ひょんなことから魔族に自分の夫を取り上げられた魔女は、表面上は平静に嘯く。
だが我慢をしているというのは事実だろう。そうでなければこの城砦が完膚なきまでに恐怖で圧されているわけがない。
ティナーシャは男の腕の中で身を捩って問うた。
「それで、あとどれくらいかかりそうなんですか?」
「半年以内には終わらせる。お前もそれまでの辛抱だ」
「辛抱しているのは貴方の気がするんですけどね。ごめんなさい」
「気にするな」
今は、三人の最上位魔族の代わりをしている魔女。
ティナーシャは夫の言葉に、申し訳なさそうに微笑んだ。

そもそもの切っ掛けは、最上位魔族のうちの一人、第二位の女が気紛れに人間階に現出してきたことであろう。
彼女は戯れに世界を見て周り、逸脱者二人と出会った。そうしてオスカーに自分のものになるよう命じてきたのだ。
その時はティナーシャが有無を言わさず女を殺したが、結果として最上位に三つもの空席が生まれ、位階間の均衡が崩れた。
危うく世界存亡の危機にまで陥りかけた一件は、何人もの人外の動員により何とか事なきを得たが、当事者である二人は今もその後処理に回っている始末である。
すなわち、オスカーは新たに生み出された最上位の教育係として。
そしてティナーシャは、その間一人で三つの空席を埋める代役として。
彼らはもう三年もの間、別々に動き続けている。

「っていうか、一から綺麗に作り直されたのに、何であの女は貴方に対する独占欲があんなに強いんですかね。もう一度殺しましょうか」
「まだ子供だからだ。すぐに収まる。人間のこともよく学んでいるしな」
一国の王女に成り代わって生きている最上位の娘は、危なっかしくはあるが日々成長しているらしい。
だがその嫉妬心は特にティナーシャに対して顕著であり、彼女はオスカーに近づくことが出来なくなってしまったのだ。
不味いことに、相手が最上位であるだけあって、魔法で誤魔化すことも難しい。
結果としてティナーシャは、こうしてたまにうさばらしを兼ねて、夫を呼び出しては束の間の休息を得ている。

会えないでいた数か月分。その空白を埋めるように、魔女はぎゅうぎゅうと両腕に力を込めた。
オスカーはその体をそっと抱き返して微笑む。
「折角だからちゃんとした食事をしろ。どうせ適当にしているんだろう? 外に行こう」
「あ、でもそろそろ私帰らないと駄目ですから」
「……は?」
「こっちの位階に来るのに大雑把な処理を施して来たんで、いい加減限界ですね。戻らないと大陸のあちこちが異界化します」
散々夫に抱きついたティナーシャはそれで気が済んだのか、すっきりとした笑顔で宙に浮かび上がった。「また会いに来ます」とだけ言い残して、牢の中から姿を消す。
あまりにも呆気ないその帰還に、オスカーは我に返ると黙って自分の両手を見つめた。
「俺は今日、泊まるつもりで予定を空けて来たんだが……」
ままならない生活は、まだまだ続いていくらしい。
大きく溜息をついて肩を落とした男は、王女の教育を終えるべく早々に城へと戻っていったのだった。