mudan tensai genkin desu -yuki

―――― 朝、起きてきた夫の顔を見たら、顎に赤い手形がついていた。
このような状況に出くわした場合、どう反応をすればいいのか。 雫は五秒程悩んで、答を出す。
「エリク、幽霊に襲われたんですか?」
「幽霊なんていないよ。頭大丈夫?」
速攻の切り替えしは事実であったので、雫は素直に反省した。
いくらなんでもこの世界の研究者としてあり得ない発言をしてしまった。 改めて彼女は、赤い手形について考察し直す。
「夜のうちに家に不審者が……」
「まずどうしてそう思ったか聞いてもいいかな」
彼の疑問はもっともであったので、雫は「鏡を見てください」と促す。
エリクは言われた通り、壁にかけられた鏡を覗き込んだ。
「理由分かりましたか?」
「分かった」
「ではやはり不審者が」
「いや、これ僕の手形だよ」
「へ?」
拍子抜けの結論に雫の目は丸くなる。
その間にエリクは自分の手をじっと見ると「昨日、試薬に触ったのが原因かな」と呟いた。

赤い手形の大元は、ファルサスの研究室で作られた試薬であるらしい。
エリクはその試薬を昨日、ちょっとした事故で直接触ってしまったのだ。
手はすぐに洗ったが、成分は落ちきらずにいたようだ。直後に触れた顎は一晩経って見事腫れあがってしまった。
その旨城に報告して薬を貰ってきたエリクは、心配そうな妻に頷いて返す。
「多分大丈夫だよ。これを塗っておけばいいらしいし」
「本当ですか?」
「多少副作用は出るらしいけど、体に悪いものじゃないんだって。一週間くらいで治るってさ」
「ならいいんですけど……」
薬を塗布する夫を不安そうに見やる雫は、その場は素直に引き下がった。
しかしそうして迎えた次の朝―――― 雫は夫の有様に二の句が継げなくなってしまったのである。

「何ですか、その顔」
「うん? 何が? なんかもぞもぞするけど」
「昨日の回り道を省略して言いますと、鏡見てください」
指し示された壁の鏡をエリクは覗き込む。少しの間があって、彼は振り返った。
「髭だね」
「髭ですね」
薬を塗った顎からもっさりと生えている茶色の毛。それは紛れもなく彼自身の髭であった。
下顎を覆う茶色い毛玉をエリクは撫で回す。
「なるほど。これが副作用か」
「うわー、私、エリクの髭って初めて見ました」
「あんまり生えない体質だからね。僕もここまでなったのは初めて見た」
「剃るんですか?」
「それやると腫れたところに触りそうだから。しばらく放っておくしかないよ」
「今週は髭週間ですね」
「うん? まぁそうかな」
中性的に整った顔立ちの彼が髭もじゃだというのは、なかなかにアンバランスで面白い。
まるで似合わない付け髭を貼り付けているようで、雫はじわじわとせりあがってくる笑いに顔をひきつらせた。
もう髭を気にしていないらしき夫に、お茶を出しながら問う。
「昨日の塗り薬ってまだあるんですか?」
「あるけど何で?」
「いえ、鼻の下に塗ったらどうなるのかなーって……ちょっと」
「…………」
言っている途中から自分でもひどいと気づいた雫は、夫の沈黙に顔を伏せた。穏やかな声が彼女に釘を刺す。
「君のその好奇心は長所だと思うけどね、薬は用法を違えない方がいい」
「す、すみません」
「うん」
謝る妻をよそに、エリクはもさもさの髭の下に本日分の薬を塗布し始めた。
反省と恐れと一抹の好奇心を呼び起こす光景。夫を見守る雫は―――― 翌日仙人みたいになった夫に笑いを堪えることが出来なかったという。
腫れ自体は三日で治った。