眩暈

mudan tensai genkin desu -yuki

当主審議によって兄から王位を簒奪したという、特殊な経歴を持つ女王オルティアは、多くの人間から「極まった仕事好き」と思われている。
それは必ずしも事実ではないのだが、彼女が精力的に執務をこなしていることは確かだ。
浪費をすることも享楽に溺れることもなく、ただ一日の大半を国の仕事と向き合っている。
昼は勿論、夜、寝室に書類の類を持ち込むのも別に珍しくないことであり―――― だがオルティアは、ある一時から私室に公文書を置かなくなった。隣国の王である男が、彼女の部屋に出入りするようになったからだ。
たちの悪い男に仕事の内容を知られて、悪戯でもされたら困る。そう考えてオルティアは、私室では細心の注意を払って過ごしている。
城でもっとも安心出来ない場所が自分の部屋であるということに、色々思わなくもないが、その辺を気にしたら暴れ出したくなるので突き詰めないことにしていた。
それでも半年に一度は、暴れ出したくなる時が来るのだが。

「帰れ」
顔も上げずにそう言ったのは、彼女の寝室に許可なく立ち入れる人間が一人しかいないからだ。
寝台の傍に立つ男は、書類を広げている女王を面白そうに見下ろす。
「なんだ、仕事か? 何をやってるんだ?」
「見るな。お前には関係ない。帰れ」
今取り扱っているものは大した機密でもないが、処理が立て込んでいる為仕方なく寝室にまで持ち帰ってきたのだ。
このような時に限って邪魔者が来るとは腹立たしいが、大体この男は邪魔な時にしか来ない。そういうものとして、オルティアは割り切っていた。
寝台に座った男を、オルティアは横目で睨む。
「聞こえなかったのか? お前の相手をしている暇はない」
「俺は暇なんだけどなー」
「黙れ」
彼女は書類を見たまま白い素足をぞんざいに上げる。そうして男の顔を蹴ろうとした爪先は、しかし彼の手によって掴まれた。
恭しく足の甲に口付ける男を、オルティアは呆れ顔で見上げる。
「邪魔をするな。転移陣を消すぞ」
「それは困る。つまらなくなるからな。―――― よし、邪魔はしない」
「そうか」
「でも帰らない」
「…………」
もう一度蹴ってやろうかと思ったが、男は彼女の足を掴んだままだ。
オルティアは文句を言いかけて、けれどあることを思い出し、背後の露台を振り返った。窓の向こうには大きな月が見える。
「……そうか」
納得の声は、男にも聞こえたはずだろう。
しかしラルスは何も言わない。彼は口元だけで笑っていた。

何を言っても意味がない相手なのだから、何を言う必要もないだろう。
オルティアは溜息を一つつくと寝台の隣を指差した。
「いたいのなら好きにしろ。妾はまだ寝ない。本でも読んでおれ」
「俺としては、お前が何処までくすぐりに耐えて仕事出来るかって遊びがしたい」
「殺されたいのか? 大人しく出来ぬのなら帰れ」
言い捨てると同時に、ぞっとするような感覚が背中を走る。
オルティアは思い切り顔を顰めた。自身の足の指を、当然のように食んでいる男をねめつける。
「―――― 死ね」
呟いた言葉は、半分が吐息で出来ていた。
沸き起こる眩暈。だがそれ以上の感覚には溺れない。彼女は意識を集中しなおすと仕事に戻る。



翌朝起きた時、投げ出した書類は投げ出した時のままになっていた。
男の姿はない。彼は、踏み込むべきではない領域を知っている。
ただそれを知らぬ振りをするところが腹立たしくて、だが結局はそういう男なのだろう。
オルティアは眩暈の残滓を振り落とすと、白い腕を伸ばして書類を拾い集めた。