誕生

mudan tensai genkin desu -yuki

膝に抱える程の大きな籠にぎっしりと詰まった糸と布。
それが彼女の持つ全てだ。ディーノリアは乾いた手で籠の持ち手をきつく握る。
道ですれ違う人間は誰も彼女を振り返らない。質素な格好の彼女を単なるお針子と思っているのだろう。
この二年で彼女の所作も大分野に馴染んだ。かつては印象が薄い娘とよく言われたのだ。昔の知人に会っても、彼女と分からないかもしれない。
だが今のディーノリアはそのようなことを何一つ考えてはいなかった。
ただ重い籠を持って歩いていく。前を見据えて進む。
彼女を支える者は誰一人いない。ディーノリアはそれでも俯きはしなかった。






その小さな家は、彼女の生まれた国より遥か南の海辺の町にあった。
常に潮風が吹き付けるささやかな港町。二階の窓から初めて水平線を見たディーノリアは、感動に言葉を詰まらせる。
最低限の荷物を運び込んでいた男が、動かない彼女に声をかけた。
「ディーノリア様、いかがいたしましたか」
「すごいわ」
このように自由を感じさせる景色を他に見たことがない。
日の光を受けて煌く海面はまるで宝石のようで、ディーノリアはただただその景色に見入った。
「これからここで暮らすの?」
「ええ。当面は」
「嬉しいわ。私、あなたともっと話してみたかったの」
以前はテスと呼んでいた男。突然帰ってきて彼女をここに連れて来た男は、だがその言葉に苦笑しただけだ。
ディーノリアは不分明な反応に瞳を翳らせて彼を見上げる。
「どうしたの? 何かまずいことを言った?」
「いえ」
言葉を濁す彼にディーノリアは不審を覚えたが、その理由はすぐに分かった。
翌日には彼はまた何処へともなく出かけて行き……まもなく彼女は、ログロキアの城都にイクレムが攻め込んだという話を聞いたのだ。
つまりはただ、場所が変わったというだけのことなのだろう。ログロキア城都からこの小さな港町へ、彼女の居場所は移された。
他には何も変わらないのだ。出て行った男は「私が一ヶ月以上戻ってこなかったら、何処にでも好きに行ってください」と言い残していったのだから。
彼と一から新たな関係を作れるかもしれないと期待していたディーノリアは、本当のところを知って落胆を抱いた。
宙ぶらりんになってしまったような感覚―――― だがそれも少しずつ割り切っていくしかないだろう。いつまでも何も出来ないお嬢様ではいられない。
そうして新たな町に移って二ヶ月が過ぎた頃、彼女は昔から趣味にしていた縫い物で生計を立てるようになっていた。



「……凄いですね」
何度目かに戻ってきた男は、作りかけの花嫁衣裳が部屋の隅に飾られているのを見てそう言った。
少しずつ評判を得て仕事が増えてきた彼女は、ついには嫁入り衣裳を頼まれるまでになっていたのだ。
田舎町の人間からすれば垢抜けて上品に見えるのだろう薄青いドレスを、ディーノリアは微笑んで見やる。
「大変だけれどやりがいはあるの。だって一生その人の記憶に残る衣裳な訳でしょう?」
「ええ」
一針一針丁寧に仕上げて、それを客に渡した時の充足感は、貴族の娘として生きていた頃には得られなかったものだ。
食事の支度をしながら己の近況を語っていたディーノリアは、不意に言葉を切るとふっと息を吐き出した。所在なげに立っている男を振り返る。
「私、ちゃんとやれるようになってきたのよ。だからもうあなたに迷惑をかけないんじゃないかって思ってる。……あなたが危険な仕事をしなくても」
ディーノリアは息を詰めて男を見上げる。
男は、少しだけ驚いたような顔をして彼女を見ていた。
―――― たまにやってきては金を置いていく彼が、出かけている間何をしているのか。
きちんと説明されなくても分かるものは分かる。もうそこまで世間知らずではないつもりだ。
だがそれがディーノリアの為だというのなら、いつまでもそんなことをする必要はないだろう。
彼女も子供のように甘えっぱなしではいない。現に仕事が軌道に乗ってから、彼の置いていく金に手をつけてはいないのだ。
だからきっと二人で、新しく穏やかな生活を始めることも出来る。
そう思う彼女に、けれど男はその時返事をしようとはしなかった。
ただ彼は驚きの表情から覚めると、柔らかく微笑んだだけだ。
その笑顔はディーノリアに、亡き母のことを思い出させた。



「私が一ヶ月以上戻ってこなかったら、何処にでも好きに行ってください」と、彼はいつもと同じ言葉を残して出て行った。
そしてそのまま、三ヶ月経っても戻っては来なかった。
ディーノリアはそこから更に一年、同じ家で彼を待った。



何も分かっていなかったのかもしれない。
それはおそらく二人のどちらもそうで、彼女が繋ぎたいと思って差し出した手は、宙に留まったままとなった。
彼が仕事で何らかの失敗をしたのか、それとも自分の意志で帰ることをやめたのかは分からない。
或いは彼女の為に危険な仕事をしているなどとは、単なる思いあがりでしかなかったのかもしれない。
本当のことを彼は何も話してはいかなかった。
結局は何も分からぬまま、ディーノリアはそうして一人になった。






「本当に行っちまうのかい?」
「はい。お世話になりました」
世話になった近所の女たちに、ディーノリアは深々と頭を下げた。
この二年で顔馴染みも常連客も多く出来た。だが彼女は、小さな港町から出ることを選んだのだ。
戦乱の多い大陸だ。人の多い街に行けば危険も多くなるだろう。
けれどその代わり、もしかしたら彼に出会えるかもしれない。彼女はその期待を僅かながらに抱いていた。
「もしあの人がこの家に戻ってきたら、伝言してください。私はターセルの街に行ったって」
「分かったよ」
母親のような年齢の隣家の女は憐れむような目で頷く。ディーノリアは笑顔で礼を返した。



重い籠を手にして、彼女は歩いていく。
誰も彼女を支える者はいない。
ただ叶うなら今度こそ自分が彼を支えたいと思って、ディーノリアは真っ直ぐに顔を上げた。