故郷

mudan tensai genkin desu -yuki

二つの大陸は同じ言語と似た文化を持ちながら、まず根本的に空気が違っていた。
大きな戦乱などなく、国同士のちょっとした衝突や小競り合いなどはあっても、平穏こそがまず基本であると皆が思っている。
それは故郷を離れ大陸を移ってきたネイにとって本来歓迎すべき違いであるのだろうが、彼は実際のところ複雑な思いを拭いきることが出来なかった。
だが ―――― そのような感情を抱くということ自体、祖国の影を引きずっているせいなのだろう。
事実傭兵のような真似をして新天地である大陸を巡りながら、ネイは国や貴族らに出来るだけ関わらないよう契約を選んでいる。
それは彼が祖国を出ることになった苦い記憶に端を発しており、今も彼は、そうして個人との契約を終えたばかりであった。
久しぶりに自由の身になったネイは、逗留している街で装備を整え直しながら、ふと懐を手で探る。
そこには彼が祖国を出奔した時に持ち出した短剣がしまわれており、かつてと変わらぬ固い感触を伝えてきていた。
ネイは少し躊躇ったが、短剣の鞘を掴むとそれを取り出す。黒い鞘に収められた細い刃は、まるで何の変哲もない一振りであるように見えた。
彼は道のすぐ横を流れる運河を横目で見やる。
―――― 捨てようかと思ったことは一度や二度ではない。
むしろこの大陸に渡ってくる時、海に投げてしまおうとはじめは思っていたのだ。
だが結局ふんぎりがつけられずに今でも持ち歩いているのは、異質な力を持つこの短剣から目を離してしまうことが不安だったからだ。
もし自分が手放すことで、この短剣が元の場所である祖国にでも戻ってしまったのなら。
わざわざこの短剣を持ち出してきた意味がなくなってしまう。それはネイにとって、完全な敗北と同義だった。
彼は未だ褐色のままの自身の肌に目を落とす。
「……ディアドが」
ただ一人しか保持出来ぬはずの異能。それがまだ失われていないということは、「彼女」の孤独を意味している。
彼女はまだ一人きりなのだ。その事実はネイに少なくない苛立ちと焦燥を呼び起こしていた。
彼は苦い顔になると、取り出した短剣を再びしまおうとする。
その時、耳のすぐ後ろで女がくすりと笑った。
「ああ、見つけた」
「―――― っ」
反射的に剣を抜きかけたのは、異物に対する拒否反応のようなものだ。
神代から生き続ける女を一人知っているネイは、聞き覚えのない女の声に、だがそれと同じ異質を感じた。
本能的な戦慄に伴う動作に、女は軽く指を鳴らして応える。途端、ネイの体は指一本も動かせなくなった。
「な……」
「はいはい。いい子にしてなさいな」
言いながらネイの横を回ってきた女は、外見的にはただの美しい少女に見えた。
明るい色の髪に艶やかな顔立ち。 けれど彼女がただの少女などではないことは、底の無い光を帯びる金瞳を見れば分かる。
少女は薄い笑みを浮かべながら、短剣を取り上げた。
「何処にあるんだろうって探査したらまさかこっちの大陸にあるんだもん。しかも、『あんたみたいな』人間が持ってるとはね」
彼女の声に棘が混ざる理由を、ネイもよく分かっている。
自分は本来この大陸にいるはずもない人間なのだ。―――― だが問題なのは、それに気づくこの少女が何者なのかということであろう。
彼女は取り上げた短剣を軽く空中で回した。
「私も呼ばれたんじゃなきゃ見逃してやってもよかったんだけど」
「……呼ばれた? 何のことだ」
「さぁね。いずれ分かるでしょう。あんたも、私も」
くるりと回された剣が再びネイへと差し出される。
その時になって彼はようやく体が元通り動くことに気づいた。柄へと手を伸ばしかけたネイは、だがそれを掴み取る前に問う。
「―――― お前は何だ?」



祖国から、そして「彼女」から逃げ出した自分。
その自分についに追っ手の手が及んだのかとも思った。
だがそうではないと、本能が囁く。
根源的な隔絶感。不安によく似たそれを抱える男に、少女は笑った。
「私? 私は魔女。あんたもこの大陸にいるなら知ってるんでしょ? 魔女のこと」
「魔女……? だがそれは先の騒動で死んだのではなかったか?」
「あれとは別人。それに私の本当の素性は―――― 」
それは、彼の予想を越えた真実だった。



二度と戻りたくないと思った。二度と会うことはないと。
だがそう思う自分がいるこの時代に何かが変わるのなら、運命は皮肉で、だが平等であるのだろう。
神代から続く因縁の転換はすぐそこに迫っている。それを聞いたネイは、あの日父から奪ってきた短剣を手に、少女と共に行くことを選んだ。
そしてそれは、彼自身まったく予想のつかない暗闇へと踏み出す一歩だったのである。