捜し求める

mudan tensai genkin desu -yuki

鎧の重さから解放されると、すぐに強い疲労感が襲ってくる。
嗅覚は既に、血と屍肉の匂いで麻痺していた。ルースは水を満たした円器を差し出され、それで顔と手を洗う。
小さな天幕の中は、戦況が順調である為か落ち着いた空気に満たされていた。
全軍の指揮をして戻ってきた男は、濡れた顔を拭くとようやく一息つく。布を受け取った少年が主人を見上げた。
「敵はこれからどう出るでしょうか」
「そうだな……俺なら退くが。被害が大きすぎる」
―――― 敵と、素直にそう言える少年に、ルースは苦笑した。
布の敷かれた寝台に座った彼は、軽い頭痛を覚えてこめかみを押さえる。

今、ルースが戦っている相手は、父を同じくする兄二人だ。
妾の子である彼を城から追放し、ここ数年は暗殺の手を幾度も伸ばしてきた二人。
今まで不穏な膠着状態にあった彼らとついに正面から事を構える事態になったのは、複数要因が絡み合ってのことではあるが、山中の国ノイディアが全面的にルースの後ろ盾についたということも大きいだろう。
国の危機をルースに救われたノイディアは、僭王の支配から解放された後、少なくない人数の民が彼を王にと願ったくらいだ。
その支持は今は亡き少女の影響もあって、ともすれば孤立していたであろうルースを兄王と戦える程に支えていた。
実際、今彼の側仕えをしている少年も、ノイディアから彼を慕ってついてきた人間である。
周囲に恵まれて今があることを自覚しているルースは、沈殿する疲労感を飲み込むと黙って息をついた。
「殿下は、この戦いが終わったら、リサイの王に即位なさるのですか?」
「さぁ、どうだろうな」
「皆はそうだと言っています」
期待に満ちた断言に、ルースは笑っただけである。
若い希望と言えなくもないそれは、だが事実でもあるのだろう。兵や民が望んでいるのは安定した治世だ。
ルースは、その為の体制を整えることはしたいと思っていたが、自分が王となる姿は不思議と想像出来なかった。
玉座に座り、妃を娶り、血を残す―――― そのような自分に現実味を覚えない。
或いは抱えたままの欠落が、彼にそう思わせているのかもしれなかった。
埋まることのない空席。目を閉じれば女の腕が背後から伸びてきて、そっと彼を抱く。
(ルース、貴方を愛している)
水晶を思わせる声は、記憶の中にあっても色褪せはしなかった。



頭痛が酷くなってくる。
少し仮眠を取った方がいいのかもしれない。ルースは少年にその旨伝言を頼むと横になった。
気を抜けば寝台に沈み込んでいきそうな体が、溜まった疲労を訴える。
だがそれはすぐに頭痛と睡魔に混じると、奇妙な浮遊感となって彼を包んだ。時間や空間の感覚が曖昧になっていく気がする。
―――― これからの自分に現実味を覚えられないでいるのは、彼女の死を未だ何処かで疑っているせいかもしれない。
ついには一度も会うことがなかった女。彼女の遺体をルースは捜させたが、死んだ少女はかなりの捜索にもかかわらずついには見つからぬままだった。
ルースはそのことに、落胆と安堵を同時に抱いたことを覚えている。
彼女が生きているという希望に固執している訳ではない。ただ再会の約束を信じていたかった。
その約束を信じるからこそ、自分の未来に具体性が持てないと言ったなら、シェライーデは笑うだろうか。
ただルースは、何処かで知っている気がするのだ。彼女が妃として自分の隣にいる姿を。
浮いて、沈んでいく。眠気が強くなる。
目を閉じたまま伸ばした手は、今日も何も掴まなかった。






それは、泡沫の夢として現れた。
過去を遡っていく記憶。照らされては消える時間は、はじめは断片的なものであった。
だがすぐに全ては連続する流れとなり、そして濁流となって彼の意識を押し戻す。
認識はその速度に追いつかない。
けれど真実は、もはや彼の中にあった。






「お目覚めになりましたか」
少年の声には幾分かルースを気遣う響きが混じっていた。
目を開けた彼は、白い布天井を見上げる。何度かまばたきをすると上体を起こした。
頭痛は残っていない。何処か靄がかかったような思考を、彼はゆっくりと整理した。汗の滲む額を手の甲で拭う。
「……殿下?」
様子がおかしいと思われたのだろう。少年は絞った布を手に彼を覗き込んだ。
幼さの残るその顔を、ルースは真顔で見上げる。
「俺は――」
「はい」
「何か言っていたか?」
曖昧な問いではあるが、少年はその意味を正しく理解したらしい。少しだけ躊躇う様子を見せながらも頷いた。
「うなされてらっしゃいました。どなたかの名をお呼びで……」
「誰を?」
「……女性の方でしょうか」
続けて少年が口にした名は、この大陸ではまず聞くことのない響きを持っていた。
だがルースにとってそれは何よりも馴染み深い名だ。 彼はその名に全てを確信する。
再会の約束は、夢物語ではない。
いつかもう一度彼女の手を取る日が、必ず来るのだ。


時間は限りなく無限に近く、そして有限だ。
彼は改めてそのことを意識すると立ち上がった。地図を広げた机へ向かうルースに、少年が慌てて走り寄る。
「殿下、いかがなさいましたか」
「いや。少し速度を早めようと思ってな」
敵を払い、不穏の芽を摘んで、平定をもたらす。自分と彼女の民に、可能な限り続く平穏を残す。
それが彼が果たすべき役目だ。そして役目を果たした後、彼は自分だけの為に旅を始める。
おそらくは未だ何処にも生れ落ちていない彼女に、再び出会う為に。
ルースは自分の右掌を一瞥すると微笑した。
「あまり長引かせても土地が荒れる。早く終わらせて次に取り掛かろう」
「は、はぁ」
主人の変化を感じてか少年は困惑を見せたが、ルースが指揮官たちを集めるよう指示するとすぐに天幕を駆け出して行った。
残された男は地図の上に指を走らせる。



妾の子として生まれ、荒野の城で育った男。
多くの人を引きつけ、卓越した手腕で瞬く間に一つの帝国を作り上げた彼は、多くの方面において老練な采配を見せたという。
だが突然帝位を退き姿を消した彼が何処でその生涯を終えたのか、知る人間はいない。
ただ彼の愛した少女との恋物語が、今もまことしやかに語られるだけである。