mudan tensai genkin desu -yuki

寝台に座る女の首は、やけに細く見えた。
部屋に灯りの類はない。露台から差し込む青い月光だけが、彼女の白い背を照らしている。
長い髪を片側にまとめて前に流している女は、声だけで笑った。
「気紛れで来るのもいい加減にしろ。妾も怒るのに疲れたわ」
「怒らなきゃいいんじゃないか?」
ラルスは平然と嘯くと、その背に手を伸ばした。滑らかな肌の上に指を滑らす。
普段であればあっさりと跳ね除けられる手は、けれど今夜に限ってはくすくすと笑い声で返された。
情人である彼女のそのような反応は珍しい。ラルスは手を離すと乱れた髪をかき上げた。
「何か面白いことでもあったのか? 俺にも教えろ」
「大したことではないな」
「けちけちすると国土削っちゃうぞ」
それくらいのことは造作でもない。今ここにいる女の首を手折るのと同じくらい容易いだろう。
しかし彼女は「怒るのに疲れた」のか、美しい声で笑うだけだった。
「やりたければやってみるがいい。それでお前の気が済むならな」
「めんどい」
「なら言うな。お前はいつも口ばかりだ」
柔らかな声音には、いささかの毒気が混ざっている。
それは甘い香りと混ざり合って、まるで毒のように彼の体にまとわりついた。
ラルスは若干の息苦しさと、胸への圧迫感を覚える。先程から不快という程ではないが、それに似た感情が肺の中に沈殿していた。
黙り込む彼に、背を向けたままの女が艶笑する。
「どうした。痛いところを突かれたか?」
「別に」
「つまらぬ虚勢でお前の誇りは保たれるのか? あの夜のように」
頭の中を、すっと女の影がよぎる。
乏しい月光。喉元にこみ上げてくるものはなんであるのか。
忌まわしい既視感に似たもの。ラルスは反射的に腕を上げた。
取るべき剣はない。伸ばした右手は、初めから決まっていたかのように女の首を掴む。細い喉がごろごろと鳴った。
「……お前は誰だ」
―――― 同じ問いを、いつかした。
体中を嫌悪が駆け巡る。拭いがたい嘔吐感は、指に込められた力となって現れた。女はそれでも笑っている。
「妾のことが分からぬのか?」
「お前はオルティアじゃない」
本物の彼女であれば、彼の傷に触れるような真似はしない。
オルティアは、愚かしい問いをしないのだ。あるべき線を越えて彼に近づくこともない。
それは彼女の矜持であり、また慧眼からくるものだろう。愛情でも優しさでもない。ただ彼女は「分かっている」。
だから今、ここにいるのは別の女だ。ラルスは首を握る手に力を込める。
「言え。このまま殺すぞ」
「言っても殺すのだろう?」
「勿論」
「なら、言わない。だから…………思い出しなさい?」
耳障りな哄笑が響く。脇腹が、切り裂かれたように痛んだ。
胸が苦しい。圧されている。息苦しさが苛立ちに代わる。 光が消える。闇が全てを覆いつくす。
女の名を、ラルスは呼ばなかった。






目を開けた時、真上から覗き込んできたのはよく知っている顔だ。
オルティアと同じ、だが彼女よりもずっと幼い貌。
父親の胸に座ってその顔を見下ろしている王女は、彼が目を覚ましたことに気づくと嬉しそうな声をあげた。
「父様起きた! 遊んで!」
「……ちょっと待ってろー」
胸がやたらと苦しいと思ったら、どうやらずっと彼女が乗っていたらしい。
小さな体を抱き上げながら起き上がったラルスは、周囲を見回した。国境間近にある離宮の広間。部屋に他の人間はいない。
だがすぐに、奥の扉が音もなく開いた。そこから顔を出した女は、整った眉を顰めて彼を見やる。
「起きたのなら少しは遊んでやれ。寝るくらいなら帰れ」
「オルティア」
現実の女は、名を呼ばれると不愉快そうに「なんだ?」と返した。その表情にいささかの安堵を覚える。
彼は、自分の前で滅多に笑うことのない女に問うた。
「俺のことが好きか?」
「寝言なら―――― 」
そこまで言いかけて、しかし彼女は娘の視線に気づいたらしい。うっと言葉を切ると、溜息に似て深く息を吐き出す。
「庭の蛙程度にな。程々にな……」
「素直になるといいぞ、オルティア」
「素直になったら蛙以下だ」
彼女はこれ以上質問を重ねられては困ると思ったのか、さっさと扉の向こうに消えてしまった。
音もなく閉まる扉に、娘の囁き声が重なる。
「あのね、父様。わたしは蛙よりずっと好きよ」
甘い響きは、遠い記憶よりも強くラルスの中に響く。
彼は笑って小さな娘を抱きしめると、日のあたる庭へ向かい歩き出した。