ぬくもり

mudan tensai genkin desu -yuki

初めて「それ」を見た記憶を遡れば、言葉も覚束ない赤子の頃であったのだと思う。
柔らかく煮られて形がなくなった「それ」。ほのかに甘い香りをさせる「それ」は、彼の意思に関係なくその場に呈された。
そして当然のように銀匙の上に乗せられ、彼に与えられようとしていたのだ。
何という理不尽な行い。彼は小さな手を懸命に振るって、匙を押しのけた。
一目見て分かったのだ。「それ」とは、決して彼と相容れぬ存在であることを――――

「って、なに堂々と嘘ついているんですか、王様」
「最後まで聞け、人参娘」
晴れた日の城の中庭は、暖かいというよりも暑かった。
木陰で昼食の弁当を広げていた雫は、勝手におかずを奪っていく王の手を弁当箱の蓋で防ぐ。
「そんな赤ちゃんの頃のこと覚えてるわけじゃないじゃないですか。私は人参が嫌いな理由を聞いてるんですって」
「だから言っただろうが。生まれた時から嫌いだったって」
「…………」
雫はこめかみが引き攣るのを箸を持った手で押さえた。
向かいに座る王は何の遠慮もなく、また彼女の弁当箱からおかずをひょいと摘む。

学者としてファルサスに仕官している雫は、基本弁当を持参してきている。
しかし、主君であるラルスはそれを見つける度にこうしておかずを取って行ってしまうのだ。
彼に言わせると「お前の味付けは面白い」ということなのだが、雫にしてみればいい迷惑だ。
だから彼女はせめてもの意趣返しとして、出来るだけ多くのおかずに人参を混ぜ込んでいるのだが、この王は妙な嗅覚を以って人参だけを器用に避け続けていた。
「何故嫌いなのか」という問いに、いつも通りの戯言を返してきたラルスを、雫は冷え切った目で見やる。
「もうちょっとちゃんと嫌いなところを教えてくださいよ。それに対処してみますから」
「何をしても無理だ。存在が許せない」
「っていうか、さっきの話が本当だったら単なる食わず嫌いじゃないですか」
「ちゃんとその後食べさせられた。ちゃんと嫌いだ」
「えー?」
何がちゃんとなのか激しく納得はいかないが、ラルスが人参を食べるところは雫自身確かに何度も見ている。
これはとりあえず食わず嫌いではないのだろう。雫は大きく首を捻った。
「じゃあやっぱり味が嫌いなんですかね」
「えぐいしな」
「えぐくないですよ。灰汁とか取ってますし」
「えぐい。えぐみが消えない」
「何で人参に限ってそんなに味覚が鋭敏なんですか……」
ぼやいてはみたものの、ここまで強固に否定されてはもう歩み寄る余地がないのかもしれない。
雫は甘く煮た人参を口の中に放り込んだ。
「……もうお弁当全部人参にしようかな……」
そうすれば少なくともおかずを取られることにはなるまい。
真剣に対策として考え始めた雫を前に、ラルスは飽きてしまったのか立ち上がった。
「俺の母親は料理が苦手だったからな」
「そうなんですか」
「さて仕事に戻るか」
さっさと踵を返して城に戻っていく王の背を、雫は怪訝な面持ちで見送る。
―――― 母親の料理の腕がどうして人参嫌いに繋がっているのかは、結局よく分からなかった。