哀歌

mudan tensai genkin desu -yuki

小さな部屋だ。そこから出られないことに不自由はない。
ささやかに限られた空間が、彼女の世界そのものだった。



彼女の朝はそう早くはない。いつも昼過ぎになって目を覚ます。
だがそれは、この街の女全てに共通して言えることだ。
享楽の街ガテリア・ティティ―――― 夜を本分とするこの街にとって、朝とは束の間の眠りを貪る為の時間である。
その間街はまるで死んだようになり、通りからは人が消える。
一人だけの寝台に横たわる時、ガテリア・ティティの女はようやく僅かな自由を得るのだ。
「眠い……」
アーティは重い体を引きずって湯を浴びると、濡れ髪のまま窓の外を眺めた。
空は薄い白。天気はよくもないが悪くもない。空気は少しだけ湿っていた。
代わり映えのしない風景。寝台に戻ったアーティは、髪を乾かしながら歌を口ずさみはじめる。
歌姫としての歌ではない。ただの恋の歌だ。

歌姫。
それはこの街にわずかながらいる、歌を売る女の総称だ。
かつては癒しの力を持ち、だがその力を失っていった女たち。
今残る本物の歌姫は極少数であり、だがアーティはそのうちの一人である。
だからこそ彼女は、毎日歌を絶やすことはしなかった。有事の際に喉が錆びついて歌えぬ、などということが決してないように。
「次は……二ヶ月後?」
課せられた予定を思い出そうとしたが、はっきりとしたことは分からなかった。
この部屋から基本出られないアーティにとって、日にちの感覚はひどく薄いのだ。
だが忘れていても必要な時には誰か来てくれるだろう。
髪を乾かし終わると、アーティは朝食代わりにスープを温めた。
本を読みながら飲み始めようとしたところで、ふとかすかな呼び声に気づく。
「誰?」
窓の外で、誰かが彼女を呼んでいる。
本名ではなく歌姫としての称号での呼びかけはだが、彼女の名が外にはほとんど知られていない以上、仕方のないことだ。
アーティはスープのカップを置くと、窓の傍へと歩みよった。女のすすり泣く声が聞こえる。
「助けておくれよ……」
悲痛な声の主は、窓の向こうで顔を覆って泣いていた。
格好からして娼婦の一人なのだろう。薄絹を重ねた衣装はこの街では一般的なものだ。
だが普通と違うのは、女の衣装の裾がべっとりと血で汚れているということだろう。それに気づいたアーティは息を飲む。
「助けて……」
「一体どうしたの」
声をかけてしまってから、アーティは「しまった」と思った。
どうにかしたいと思っても、彼女はこの部屋から自由に出ることは出来ない。
何も出来ないのだ。期待をさせても、その期待には応えられない。
しかしそんなことは、相手には分からない。
アーティの声に、女はぱっと顔を上げた。涙と血に汚れた手を広げる。
「ああ、どうか……助けてほしいんだ。あんたの力がいる。時間はそう経ってない。まだ間に合うんだろう?」
―――― まだ、間に合う。
それはそうかもしれない。見てみなければ分からない。
だが、その為にはこの部屋を出なければならないのだ。
アーティは、シールドの張られた窓に手を伸ばした。
「その人は、ここの近くにいる?」
「あたしの部屋に」
「ここから出られれば……」
父親に頼んだとしても、出してはくれないだろう。
こんなことは今まで何度もあった。何度もあって、応えられたことは一度もなかったのだ。
彼女の力は彼女の思うようには使えない。そのことを思い知りながらも、だがアーティは女の声を無視することが出来なかった。

ガテリア・ティティは、不自由の街だ。
少なくとも女にとってはそうだ。この街の男は彼女たちを助けない。女は女たちだけで互いを守るしかない。
父親の手によって守られているアーティも、今はそのことを知っているのだ。
だからこそ父が、彼女を表に出さないのだということも。

「お願い、助けて……あたしには、あいつしかいないんだ」
泣き声は歌に似て窓の外に響く。
アーティは少しの躊躇の後、意を決すると指先に力を込めた。
―――― 窓を破る。
そんなことをしたことはない。けれど出来ぬわけではないだろう。
この街の歌姫の中で、本物はアーティだけだ。
誰よりも何よりも、力を持った女。この世界に唯一つ、歪に重なった存在。
アーティは闇色の目を見開いて、シールドへと触れる。



それから起きたことは、そう多くはない。
彼女は、女の望みを叶えることは出来なかった。
無断で部屋を出たアーティにはすぐに追っ手がかかり、ささやかな逃亡は夜まで続いた。
そしてその日のうちに終わった。この件に関わった全員に失望と絶望を与えて。

ガテリア・ティティにその晩響いた歌は、ひどく美しいものだった。
貴重な力を持った歌。それはこの街に生きる女たちの希望で、男たちの道具だ。
何十年も前から密やかに続いてきた力は、やがて本当の終わりを導くだろう。
一人の男がこの街を訪れる時まで。
その最後の時まで、彼女は眠る。