果て

mudan tensai genkin desu -yuki

長い歴史を持つ大国ファルサスにおいて、王の隣に座す王妃は程々に多忙だ。
それは彼女がかつての魔法大国の知識を受け継ぐ魔女であり、魔法絡みの面倒な案件を一手に引き受けている為だろう。
その日も新しく入ってきた魔法士の教育について、指示を出し終えたティナーシャは、ようやく一息つくと談話室のテーブルでお茶を飲み始めた。
向かいで書類を纏めている魔法士長のヴァルトが顔を上げる。
「お疲れですか?」
「程々に」
ほっと温められた息を吐き出した王妃は、自分の指示に従って働いている男を一瞥すると「貴方程じゃありませんけど」と付け足した。
王妃の片腕で知られる彼は、ティナーシャに比べ細々とした実務も担当しているのだ。暗にそれを指摘されたヴァルトは苦笑する。
「これくらいまだ苦ではありません」
「それは頼もしいですね。安心して任せられます」
ティナーシャは真面目くさって頷いたが、その瞳に一瞬探るような鋭さが宿ったのは気のせいではないだろう。
ヴァルトは平然とそれを受け流すと、書類の束をテーブルに置いた。まだ充分に熱いお茶を手に取る。
ゆらりとさざめく琥珀色の表面は、澄んでいながらも底を見通せぬ程には不透明だ。彼はそっと息を吹きかける。
「少し……空想の話をしてもよろしいでしょうか」
「何ですか?」
「例えばの話です。例えばティナーシャ様は―――― 時間を巻き戻せるとしたら何がなさりたいですか?」
やがて打つかもしれない一手に繋がる疑問。
魔女はそれを聞いて闇色の瞳を丸くしたが、不可能なことであるからこそ単なる雑談だと思ったのだろう。ほろ苦い微笑を見せる。
「面白いですね。やりたいことはいくつかありますけど、他に影響が出たらって思うと怖いですね」
「では『この世界は歴史に手を加えようとも、おおまかには修正され、帳尻が合わせられるようになっている』という条件では?」
―――― それは繰り返しを経て当主たちが出した一つの結論だ。
人が己の意志によって過去を書き換えようとも、それ以外の部分で世界は似た未来を導いてくる。
一人が幸福になれば代わりの一人が不幸に、一国が救われれば一国が滅亡の道を辿る。
あるべき姿に戻ろうとする世界の冷厳を、けれどヴァルトはそれ以上主君に語らなかった。
ティナーシャは少し考え、肩を竦める。
「帳尻が合うならば変える意味がないじゃないですか」
「そうかもしれません。ですが犠牲になる人間を選べるかもしれませんよ。
 例えば、愛する夫と失われた民を引き換えたりなど。……それが可能であるとしたらどうなさいますか?」
魔女は軽く目を細める。
ヴァルトの手向けた例は、不敬と咎められる可能性をも持った問いだ。
例え話の戯言とは言え、王を引き合いに出し王妃の過去を抉るような発言は、不躾では済まないものだろう。
ティナーシャはほんの数秒、射竦めるような眼光でヴァルトを見ていたが、ついと視線を逸らすと嘯いた。
「私は過ぎ去ったものよりも王を優先しますよ。あの人は民を不当に損なうことはしない。だから私はあの人を守ります」
「……なるほど」
―――― もう少し条件を変えて聞いてみたい。
だがそれをしてはいい加減彼女を怒らせるかもしれないし、聞かずとも答は分かる気がした。
ヴァルトはしばらく無言でお茶を啜る。
そうしているうちに、意趣返しかティナーシャは美しい笑みを見せた。
「貴方ならどうするんです? 過去を変えられるなら」
「私が、ですか」
そのようなことを誰かに聞かれたことはない。
ヴァルトは相手に突きつけた刃を、ひょいと返された気分で苦笑した。肺の中の息をゆっくりと吐き出す。
「そうですね……私は過去を変えられるなら、誰とも関わらずに過ごしたいですね」
「誰とも、ですか?」
「ええ。誰に会うことなく―――― ただ私の大事な人たちが幸福に過ごせたらと、思います」
白いカップの中のお茶は、琥珀色の波を湛えている。
どれ程揺らそうとも元の姿に戻っていくそれは、彼の苦笑を誘ってやまなかった。



怪訝そうな目のティナーシャが表情を緩めたのは、踏み込むべき領域ではないと察したからだろう。
沈黙が余計な重みを持つ前にヴァルトは立ち上がった。空のカップと書類を手に微笑む。
「勿論ティナーシャ様にも幸せになって頂きたいと思っておりますよ」
「充分幸せですよ」
「拝見していれば分かります」
人を食った発言ではあるが、彼ならばそれくらいは許される。
実際ティナーシャは笑って見せただけでヴァルトを咎めようとはしなかった。彼は一礼して部屋を出て行く。
嘘のない主君への言葉。
だが感情を決断が裏切る未来を、ヴァルトは知っていた。