楽土

mudan tensai genkin desu -yuki

移動先の部屋は、前と同じく白一色の部屋だった。
窓のない地下の一室。だが用意された設備は以前とほぼ同じだ。
アキラは火をつけていない煙草を噛み潰して、自分の仕事場である室内を見回す。
物思いに耽りかけたのはほんの一瞬だ。すぐに後ろのドアが開かれ、そのドアはアキラの背中に直撃した。
白い鉄扉の攻撃を食らった彼は、声もなくその場にしゃがみこむ。
「あ、アキラ? 大丈夫ですか?」
「……確かめてから開けて欲しかったよ……」
確かにこの部屋に出入り出来る人間は限られているが、それにしても思い切りドアを開けすぎである。
壁に手をついて彼が立ち上がると、白衣のシェラは心配そうにその背中をさすってきた。
「あの、すみません。医務室に行きますか」
「いや平気……」
職務上、そう体を鍛えているわけでもないが、これくらいで医務室に連れて行かれては次の仕事に差支える。
振り返って少女を見下ろすと、シェラはほっとした表情になった。

今までのプロジェクトの解体と移設に関わったここ一ヶ月、アキラは何度か彼女と顔をあわせていた。
だがそれもあと数日のことだ。新たな施設に移動したプロジェクトは、もうまもなく再開される。
彼は机の上に置かれた書類の束を手に取った。
「結局残ったのは第四と第八だけか」
「ええ。元の研究員は全てこの二つに引き取ります。移譲された分については、様々ですが……。
 設定を弄って没入型多人数ゲームにするところもあるそうですよ」
「へえ。ちょっとやってみたい気もするな。面白そう」
もしアキラがプレイヤーとなったなら、多少は他の人間より有利に動けるのだろうか。
彼は、自分が都市の命運を賭けたゲームに参加した時のことを思い出そうとしたが、そう昔ではないはずの記憶は、まるで本物の少年時代のことのように遠く感じられた。
新しい施設の設備配置を一通り読み終わったアキラは、隣の少女の視線に気づく。
「……何?」
「いえ。煙草、吸うんですね」
「火はつけてない」
「それは分かりますけど」
この建物内は全面禁煙だ。それを知っていてなおかつ煙草を咥えているのは、中毒症状やスタイルの問題ではなく、単にこの僅かな苦味が現実を思い知らせるからである。少なくとも高校生時代の彼は、煙草の臭いがあまり好きではなかった。
ただそのような齟齬は、シェラにとっては落胆に似たものなのかもしれない。
頭のいい人間である彼女はとっくに、それが埋められない事実であると気づいているだろう。
アキラもその溝を糊塗しようとは思わなかった。繕って偽ったとしても、得られるものは空しさだけだ。
彼は書類を置くと、その手で少女の頭を撫でる。
「ま、気が向いたら会いに来てくれよ。『俺』はきっと喜ぶ」
「今も会ってるじゃないですか」
「違うって思ってるだろ。別に当然のことだし―――― 」
「思ってません!」
彼女の語気の強さを目の当たりにするのは、戻ってきてから初めてのことだ。
懐かしい響きにのけぞりかけた彼は、しかしすぐに少女が涙目になっていることに気づいた。たちまち罪悪感が胸を焼く。
「あー……悪かったよ」
意地悪を言うつもりはなかったのだ。彼としては事実を言ったつもりで、だがシェラはきつく小さな唇を噛んでいる。
このような時、前の自分だったらもっと上手く宥められたのだろうか。
そんなことを思いながら、アキラは煙草を近くのくずかごに捨てた。決まりの悪さにこめかみを掻く。
「―――― ごめん、シェラ」
少女は顔を上げる。真摯な双眸は以前と変わらず、だが少しだけ苦味があった。
美しくひたむきな少女。けれどいつか彼女も大人になるのだろう。そんなことをアキラは思う。
白い手が自分のシャツの襟元を掴むのを、彼は何も考えずに見下ろした。強く引き寄せられるままに身を屈める。
アキラはそうして、小さな溜息を食んだ。閉じた目に澄んだ青空が浮かぶ。






「約束を忘れないでください」
最後に顔をあわせた時、シェラはそう言った。
どの約束のことかは聞かなかった。もとより、どの約束だろうと守るつもりはある。肝心なのは、彼女がそれを必要とするか否かだ。
違う世界へと下りていく過程、落ちていく意識の中でアキラは苦笑する。
「まったくな……」
結局自分に出来ることと言えば、彼女に苦さを分け与えることくらいだ。
だが今の彼女は、それを何でもないと思っているのだろう。いつまでそうであるかは分からない。誰の為にそうであるのかも。
ただアキラは自分の現実に戻っていくだけだ。当然のように平穏な日常に帰る。そして時折空を仰ぐ。
有限の世界に彼女はいない。
それでも澄んだ少女の声だけは、いつ何処にあっても変わらず、自分のところに届く気がした。