落下

mudan tensai genkin desu -yuki

神代より続く皇国ケレスメンティアには、色々と謎が多い。
その謎がどのようなものかと挙げだしたらきりがないが、たとえばこうして城の訓練場の片隅に深い穴があいている辺りだろう。
訓練の途中、休憩を兼ねて外周を歩いていたアージェは、前触れもなくあいているその穴を目にして足を止める。
覗き込むと中々に広い。直径は大人の背丈二つ分、深さも一つ分くらいある。
何に使うか分からぬ穴を見下ろす青年に、横から軽い声がかけられた。
「何してるんだ、アージェ」
「この穴なんだと思って」
声で誰だか分かったので、顔は上げない。やって来たエヴェンは隣に並ぶと穴を見下ろした。
「反省用で掘られたらしいな。俺は知らんが」
「反省用? 中に入って反省するのか」
「違う違う。掘ること自体が反省だったんだ。反省しながら肉体労働するというか」
「埋めろよ」
どういう宗教上の理由で反省しながら穴を掘るのか分からないが、このようなところに開けっ放しでは実に危ない。
しかしアージェのもっともな意見に、エヴェンは「何か別のことに使うつもりなんだろ」と返した。
「たとえばゴミを埋めるとかさ」
「ああ、エヴェンとかか」
「お前、さりげなく俺をゴミ扱いか? 妹の面倒見てもらってる感謝の気持ちとかないのか」
「むしろその一点が問題。なんでクラリベルを私物の買い物に付き合わせてるんだよ」
「可愛い子が一緒だと楽し―――― 」
相手が全てを言い終わる前に、アージェは隣の男の足を払った。
穴の中に落ちるかと思ったが、持ち前の身体能力で踏みとどまる男を、青年は冷ややかな目で眺める。
「なんで落ちてないわけ?」
「真顔でそういうこと言うな、お前! 冗談だ冗談」
「こういうことになるから、穴は埋めておかないと危ないよな、やっぱ」
「さらりと教訓みたいにまとめてるけど、落とそうとしたのお前だろ」
「死にはしないけど怪我はするだろうしな。何か落ちた時すぐ埋められる為の砂が欲しいところ」
「……お前って本当いい性格してるよな」
陛下の前だと猫被ってないか? と言う男を、アージェは黙殺した。穴の外周を一回りしてみる。
「そうだ、板を渡して使うってのは?」
「橋にするのか? 別に要らないだろ、そんな大きくない」
「板を渡してその上で模擬戦をする」
「それ、俺を落とそうって発想で言ってるだろ。誰が落ちるか」
「違う。昔そういう状況で戦ったことがある」
あの時は、細い渓谷に渡された薄い橋の上で戦闘になったのだ。
今でも思い出すと溜息が出てしまう傭兵時代の一件を、アージェはしみじみ振り返る。
実年齢にそぐわない苦労を感じさせる表情。その横顔を、エヴェンは若干戦き気味に見やった。
「まったく変な場数踏んでるよな、お前」
「いい経験だったから、エヴェンにも味わわせてやるよ」
「落とすな」

傭兵時代と比べれば、今は随分と平和で、だがやはり謎が多い。
アージェは不審な穴に対する興味をあっさり失うと、エヴェンを無視して訓練に戻ったのだった。
後でレアに「反省時に穴を掘る教えがあるのか」と尋ねたが「聞いたことないけど……」と言われた。