分かれ道

mudan tensai genkin desu -yuki

雨足は日が落ちてから一層強くなっており、窓硝子にはびっしりと細かい水滴がついていた。
その雨の音以外は何の物音もしない室内。ルクレツィアは温かいお茶をカップに注ぐ。
向かいの席は空席だ。だが彼女はそこにも湯気を立ち上らせるカップを置いた。
間をおかずして家の扉が叩かれる。
「入りなさいよ」
音もなく開かれる戸。そこに現れた女は、髪筋一つ濡れてはいなかった。
長い黒髪を簡単に束ねたティナーシャは、冷えて沈んだ目で家の主人を一瞥する。
見たこともない意匠の服は、別大陸からのものなのだろう。
彼女はルクレツィアの背後に立つと、一言だけ口にした。
「見つけました。術を解いてください」
「……意外と早かったじゃない」
異能者絡みの面倒事に、二人で対処したのは三十年程前のことだったろうか。
空白の時はもっと長かったかも、短かったかもしれない。彼女たちにとって暦はさほど意味を持たない。
その事件を収めた後、何度か話をし―――― ルクレツィアは頼まれて、ある術をティナーシャにかけたのだ。
それは「ティナーシャの力を半ば封じ、ある男から探知出来なくする」というもので、ルクレツィアは施術を頼まれた時よりも、友人の精神が傾いてきているのを、表情で察していた。

分かっている結論を先送りにするように、ルクレツィアは軽く笑う。
「それで? 見つけたからあの男と協力する?」
「そんなわけないじゃないですか。それじゃ意味がないです」
「あんたは」
言おうとした続きは、ティナーシャの目を見た瞬間、消え失せてしまった。
暗い、闇そのものの目。
元々の性格もあるだろう。彼女は昔から、目的の為に手段を選ばないところがあった。
対となる男よりも余程冷徹なティナーシャは、昔からそのような采配を振るうことが少なくなかったのだ。
だがそれは悠久の責務と結びついた時、歪な決断を導く。
ルクレツィアは、自分の掠れた声を聞いた。
「一度、あの男に会いなさい」
「嫌です」
即答したティナーシャは、驚きと呆れの入り混じった目でルクレツィアを見下ろす。
「分かっていることを聞かないでくださいよ。あの人に知られたら怒られたり止められたりするじゃないですか。
 だから貴女に術を頼んでいたのに、意味分かんないこと言わないでください」
「……あんたの独断専行がひどいから言ってやってんのよ。事態が悪化したらどうすんのよ」
「大きな変革を生み出すには、ある程度の思いきりが必要なんですよ」
ティナーシャは白い指を弾く。その指先を見つめる目は、かつてあったものが欠落しているようにも思える。
人の形をしながら、人ではない何か。ルクレツィアは友人の変貌を肌身に感じていた。
それはもう何百年も何千年も前から、少しずつ続いている緩やかな坂だ。
「貴女は私たちの属性を知っているでしょう? あれってどういう偶然か、妙な噛み合わせがあるんですよね
 つまり、私たちは共にいる限りお互いの力を削いでいる。でもこの状態じゃ叶わないこともあるんですよ。
 私は今だけは、あの人に征服されるわけにはいかない」

征服と変革。
二人の逸脱者が持つそれらの属性は、どちらも時代を変え得る稀有なものだ。
そして征服を持つ男は、彼女を支配することで己の属性を和らげ、変革を持つ彼女は支配されることで己の属性を圧される。
二人はそうして共に生きることで、僅かな安寧をこれまで得てきたのだ。
けれど今、その繋がりをも目的の為に遠ざけようとしている女は、確かに己の終わりを見据えているようだった。
ルクレツィアは、いつの間にか少しずつ人ではなくなってしまった友人を見つめる。

「あんたは馬鹿よ」
「知ってます。でも、次狂った時に自分が何をしてしまうか分かりませんから」
ティナーシャは目を閉じて微笑む。
その表情はひどく綺麗で、不思議な程に人間味がなかった。
忘却することも出来ずに過ごした数千年。それが一人の人間をどのように圧していったのか。
ルクレツィアは喉元につかえた息を飲み込む。






「いつでも帰ってきなさいよ」
封を解くにはそう時間はかからなかった。本来の力を完全に取り戻した女は、手首を確かめるように捻る。
「何も入れないお菓子を焼いてくれるなら」
「嫌よ。めんどくさい」
「入れないほうがめんどくさいってどういうことですか。まぁいいですけどね」
先を急ぐのだろう。踵を返したティナーシャは、扉に手をかけると穏かに微笑んだ。
「ありがとうございました、ルクレツィア」
「お礼なんて言うんじゃないわよ」
「今言わないでいつ言うんですか」
ルクレツィアは振り返らない。
扉が閉まる音は、雨音にかき消された。
ルクレツィアはテーブルの上を見やる。
ぼやけた視界に残るカップには、冷めてしまったお茶が湛えられていた。