運命

mudan tensai genkin desu -yuki

彼女は、湖の上に立っていた。
濃い茶色の髪は足首までの長さがあり、擦り切れた服と半ば同化しているように見える。
薄汚れた肌、煤けた手には、更に汚れた一冊の書物があった。
ただ黙々とそれを読んでいるだけの女。
異様であるのは、彼女が水面に立っているということと、その造作が作り物のように美しいということだけだ。
体についた血を洗う為、水場を探してここまで来たサリスセスは、呆気に取られてその女を注視する。
女はけれど、そう離れた距離に立っている訳ではないにも関わらず、森から現れた男の存在に気づいていないようだった。
彼は女の読んでいる本に視線を移す。
「……随分ぼろぼろだな」
その声で、女は初めて顔を上げた。青い瞳がまじまじとサリスセスを眺める。
「―――― 誰?」
「それはこちらが聞きたいくらいだ」
言いながらサリスセスは腰の剣を意識の中で確認する。
水の上に立っているなど、魔法士か人外のどちらかだ。
前者であればいいが、後者であった時には手に負えない可能性もある。
直前まで苛烈な戦闘に巻き込まれ、疲労気味の男は、水面の女との距離を測った。
女は不思議そうに首を傾げる。
「私は******です」
「は? 聞き取れなかった」
「******」
二度言われてもやっぱり分からない。正確には「発音出来ない」音と言えばいいのだろうか。
魔族にはたまにそのような名を持つ者がいる。これは間違いないだろう。サリスセスは背後の森をさり気なく振り返った。
―――― 迷わず飛び込めば、きっと逃げられる。
そう考えた彼の行動を止めたのは、女のぼやけた声だ。
「あなたも逃げて来たのですか?」
傾いた瞳は、少しだけ心配そうな色をしている。
サリスセスは細い女の体を眺めた。
「……お前は逃げてきたのか? 誰かに追われていた?」
「誰かに、ではないです。でも本を読んでいると、いろんな人が邪魔をしてくる。だからここに立っています」
「水の上に?」
「ここにいると、動物は来ません。人は怖がって近づきません」
「だろうな」
水の上に立つ美しい女など、どう考えても尋常な存在ではない。
サリスセスが声をかけたのも、女の存在に好奇心を覚えたのと―――― 単に自分に自信があるからだ。
普通の人間ならまず関わるまいとするだろう。女はそんな男に好奇心を抱いたのか、まだじっと彼を見ている。
本を支える細い十指を、サリスセスは見返した。
「……洗ったらどうだ?」
「洗う? 何をです?」
「手を」
そう言って彼は、自分の手が血に汚れていることを思い出した。
得体の知れない女だが、どうやら敵意はないようだ。彼は水辺に屈んで手を洗う。
「―――― こういう風に。それでは本が汚れるぞ」
「ああ……」
嘆息はまるで、初めて気づいたかのように聞こえた。女は手元の本をそっと閉じる。
「これはとても古いものなのです。最後の一冊と言えばいいでしょうか」
「貴重なものなら大事にすればいい」
「ええ」
「顔も洗った方がいい。美しいのに勿体無い」
そう付け足したのは、無意識の気紛れのようなものだ。大した意味はない世間話と変わらないもの。
だが彼女は大きく青い瞳を見開いた。煤けた指で自分の頬に触れる。
「顔も?」
「……自覚がないのか」
「ずっと、本を読むことに集中していたので」
「誰かに追われたり? 時間の感覚がないのか?」
「あなたたちとは、違うようです」
女はそう言うと、本を手放した。
だが古びた本は湖に落ちることなく、彼女の頭上に浮いて留まる。
女はそれを確認すると、おもむろに着ていた服を脱ぎ去った。まったく男を気にしていない様子で水の中に入る。
無心に水浴びをする不可思議な女。
そうして彼女が汚れを濯ぎ落とし、人外にふさわしい美しさを取り戻すまでを―――― サリスセスは何となく水辺に座って眺めた。



「俺と一緒に来るか?」
服を洗って乾かす女にそう尋ねたのは、気紛れの延長のようなものだ。或いは自分でも意識しない好意の表れだったか。
まだ裸身のままの女は、怪訝な顔で自分を指差す。
「私がですか?」
「他に誰もいない」
「どうしてです?」
「読書を邪魔されたくないのだろう? 一緒にいれば少しはましだ。排除出来る相手なら守ってやる」
それくらいの協力はせねば、今の世の中を渡ることは出来ない。
ちょうど魔法を使える仲間が欲しかったのだ。素直な相手ならば人外であっても構わない。むしろ人間の方が余程油断ならないのが現実だ。
頭の中でいくつかの計算をするサリスセスを、女は注視する。
何を考えていたのか、ややあって彼女は頷いた。
「分かりました。では代わりに、私があなたを守りましょう」
「契約成立か。よろしく頼む」
「はい。あなたの名を聞いてもいいですか」
「サリスセス。お前は……ディアドラでいいか」
発音出来ない名を無理に呼ぶなら、それが一番近いだろう。彼女はそれを聞いて初めて、少しだけ微笑んだ。
「ルーディルスタイアの《十三》、ディアドラです。どうぞ、よろしく」
その名乗りの意味を、サリスセスは生涯知ることはなかった。



二人が作った国は、後に大陸でもっとも長い歴史を持つ国となった。
その国もやがて滅び、彼らの血だけが糸よりも細く継がれていく。
彼女の持つ最後の一冊が何処に消えたのか、真実を知る者はいない。
物語の終わりは多くを語らぬまま、無数の書物の一つへと過去を押しやっていくのだ。