酒場の噂

mudan tensai genkin desu -yuki

深い闇色の髪と瞳。
一度見たら忘れられない美貌の女が、そこにはいた。

薄暗い酒場の喧噪は、さざ波のように互いにぶつかりあって沈んでいく。
笑い合う酔客たちの軽い言葉は、一語一語だけが独り歩きして大した意味を持っていないかのようだ。
そんな中、「魔女」という単語を耳に挟んで、店主の男は手を止めた。
カウンターを挟んで彼の前に座っている男の客は、隣の仲間になおも語る。
「それでその魔女は、塔を上ってきた俺に言ったんだ。『望みはなんだ?』とね」
「それで?」
「咄嗟に思いつかなかった。馬鹿だとは思うがな。そしたら魔女は怒りだした」
「魔女を怒らせたのか! で、どうしたんだ」
「赤い髪を振り乱して追いかけて来たよ。俺は命からがら逃げだした。それで塔を出てから上を見上げたら、窓から恐ろしい顔で俺を睨んでたんだ。だから言ってやった――」
「……酔いが過ぎるようだな、もう帰ったらどうだ?」
それまで無言でいた店主の言葉に、男はきょとんとして顔を上げる。
良い気分で話していただけ鼻白んだのだろう。苛立ちが男の顔に浮かんだ。酔いに任せて男が怒鳴り出そうとした時、だがその背中をぽんと白い手が叩く。
―――― それだけで、男の顔からふっと表情がなくなった。
「帰る」
酔いで赤ら顔の男は、まるで人形のように席から立つと、しっかりとした足取りで店を出て行く。隣の男も慌ててそれを追った。
そして代わりに、彼の背を叩いた少女が、空いた席に座る。
長い黒髪に、同じ色の瞳。
十五、六にしか見えない、だがぞっとするほどの美貌。
酒場の喧噪に不釣合いな少女は、当然のように席につくと、店主を見上げた。
「お久しぶりです」
「…………ああ」

酒場の店主である彼が魔女の塔を上ったのは、二十年も前のことだ。
その時は、子供の病を治してもらおうとただ必死だった。
だが試練を乗り越えられなかった彼の前に、当然のように彼女が現れたのだ。
そして魔女は、沈黙と引き換えに彼の願いを叶えた。

「お元気そうで何よりです。息子さんも」
「……あんたのおかげだよ」
「律儀な方ですね。あ、別に見張ってるわけじゃないから大丈夫ですよ。ここに来たのはただの偶然です」
店主は秘蔵の酒を小さなグラスに注ぐと、彼女の前にことん、と置いた。
少女は微笑むと、透き通る液体に猫が舐めるように口をつける。
「ああいう与太話も、放っておいていいです。きりがないですから」
「おれがいやなんだよ。息子の恩人をあんな風に言われて」
「魔女とはそういうものですよ」
少女は笑って、一息に酒を飲み干す。
濡れた赤い唇はそこだけ彼女の底知れなさを示すようだ。
二十年前となんら変わらぬその姿を、店主は幻でも見るように眺める。

思い返せば、まるであっという間の月日だった。だが今は、つい昨日のことのように思える。
彼女はグラスを置くと微笑んで立ち上がった。店主を見上げ軽く微笑む。
「ごちそうさまでした。お代は」
「もうもらった。二十年も前に」
「律儀ですね」
魔女はそうして去っていく。
最後に見せた微笑は男の目に、まるで運命を操る者のように映っていた。