戦慄が走る

mudan tensai genkin desu -yuki

焼け落ちかけた廃屋は夜の闇の中に沈み、押し殺した騒然の中で一抹の静謐を保っていた。
戦乱によってとうに放棄された街の、奥まった一角にある廃屋。かつては貴族の別宅か何かであったのだろうその場所で、アージェは師と二人、息を潜めて戦況の不味さを確認しあっていた。
焼け落ちた窓から外を窺っていたケグスが、玄関広間の中央に戻ってくると首を竦める。
「駄目だな。こっちの陣営はほとんどやられたみたいだ」
「予想以上の速度なんだけど。内通者でもいたのかな」
「さあな。引き際を見誤った」
本来ならば、ここまで事態が悪化する前に脱出するべきだったのだ。
だが、夜の街で始まった戦闘は情報の混乱が相次ぎ、分断された二人はなまじ戦える人間だった分、状況の悪化に気づくのが遅れた。
現状としては、おそらく取り残された最後の一組であろう彼らは、敵兵たちの気配に満ちている外を溜息混じりに見やる。

焦げた床に座りこんでいたアージェが立ち上がった。
「でもま、脱出しますか」
「隠れてたら見つからないってわけじゃないっぽいしな。向こうには魔法士も何人かいるみたいだ」
「めんどくさ……」
「文句言ってんな。行くぞ」
だるがりの弟子を叱咤し、ケグスは屋敷の裏口に向かおうとする。
だがその時、音もなく屋敷の扉が開いた。
夜の中に立っているのは、四人の男と一人の女だ。傭兵らしき男四人が剣を抜いているのを見て、アージェは自分も長剣を構える。
―――― まるで気配を感じなかった。
それは、この状況で自分たちにとっては異常なことだ。
相手は余程の手練れか、もしくは何か理由があるのか――――
戦闘態勢を取りながら警戒するアージェに、ケグスの押し殺した声がかかる。
「アージェ、不味いな。後ろの女、魔法士だ」
「え?」
言われてよく見ると、確かに傭兵四人の後ろにいる女は、軽装で武器も持っていない。
しかも詠唱をしているのか、口の中で何かを呟いているようだ。傭兵たちの隙間からその指先がアージェを指し―――― 青年はなかば反射的に床を蹴って横に跳ぶ。
白い閃光が、暗い室内を照らした。

薄い煙を立てて焦げ穴が開いた床。
それを為した魔法の光球は、食らえば致命傷を免れなかったであろう。
すかさず追撃で斬りかかって来る傭兵の二人をあしらいつつ、アージェはもう二人と交戦する師に問う。
「これ、不味いよな」
「俺が今そう言っただろう」
「そうなんだけど」
前衛の剣士と後衛の魔法士の組み合わせは、少人数戦闘では磐石の態勢だ。
それを突き崩すには、前衛を素早く倒すしかないが、相手の傭兵も己が役回りを弁えているらしく、深追いはしてこない。斬りかかって来たと思えば素早く引き、魔法にその場所を譲る。
腕の立つ魔法士というものが野に少ない現状、これほど嫌な動きをしてくる敵は初めてかもしれない。
アージェは顔のすれすれを飛んでいく光球に、ひやりとした思いを味わった。
大きく後ろに跳ぶと、額の汗を手の甲で拭う。
「……ひょっとして、俺たち死にそう?」
「そうかもな。何とかしないとな」
時が経てば敵の増援も来るだろう。そうなればまず手詰まりだ。
アージェは横眼で窓の外を一瞥する。
いつの間にか、街のどこかで火が上がって夜空を染め上げていた。
無言のまままた女が火矢を放つ。
「―――― 死ぬのはちょっとな」
そう言った時、アージェは左手で小さな火矢を弾いていた。
皮の手袋が焼け焦げ、だがその下の黒い指には傷一つない。
突然素手で魔法を避けた青年に、敵の傭兵がぎょっとした顔を見せる。
だがその時には既に、敵の増援が屋敷の入口に姿を見せ始めていた。
今まで黙っていた女の魔法士が、口を開く。
「投降は認めらないわ。あなたたちは死ぬしかないの」
「死ぬしかないって言われても」
それは、受け入れがたいことだ。
いつか自分がつまらぬ死に方をするのだとしても、それは今ではない。何故かアージェにはそう確信していた。
彼は自分の左手を一瞥する。誰かの影が脳裏に浮かんだ。
「ケグス」
「なんだ」
「ちょっと試してみていい?」
「好きにしろ」
何かも聞かないのは、信用されているのか投げられているのか。
もっとも長い相談が出来る状況でもないだろう。
アージェは頷くと、左手を上げる。
ここしばらく、ふっと頭をよぎる影に向かって―――― その名を呼んだ。

「ダニエ・カーラ」

屋敷中に響く女の哄笑は、それ自体が忌まわしい響きを持っていた。
いるはずもないもう一人の女に、ケグスを含めてアージェ以外の全員がぞっと戦慄する。
アージェはただ一人、平然とした顔で己の左手を差し伸べた。焦げた手袋の穴から黒煙を立ち昇らせつつ、命じる。

「何とかしてみろ」

それだけの、まるで何も分かっていない青年の命に、毒意で出来た女は笑う。

「あなたが言うなら喜んで」
次の瞬間、敵の魔法士の首が、己の意思によらず真横に折れた。







包囲された街から逃げ出すのは容易いことではなかった。
なんとか夜の火にまぎれて脱出し、離れた山影で一息ついた二人は、お互いのなんとも言えない顔を見合わせる。
ケグスが黒い左手を見てぼやいた。
「とんでもないな」
「ってか、俺の頭の中でめちゃくちゃうるさいんだけど。ひっきりなしに話しかけてくるんだけど」
「その辺は自分で何とかしろ」
そっけなく言ってはみたが、「針」のもととなった女の力と悪意は想像以上だ。
これは簡単に使うべき手段ではないだろう。口に出さずともその思いを共通する二人に、また女のくすくす笑いが聞こえる。
「愛しているわ、カルド」
「たのむからちょっと黙って。俺、仮眠したい」
言うなり土の上に座りこんで、アージェは目を閉じる。
そうして数秒もおかず寝息を立て始める弟子に、ケグスは呆れた視線を送ると、深い深い息をついた。
うっすらと白み始めた空は、雲一つない晴天の予感がした。