羊飼いの笛

mudan tensai genkin desu -yuki

一面に見える緑の丘には、まばらに白い斑点が散っていた。
それら斑点はよく見れば一つ一つがもこもこしている。羊だ。羊が点在している。
雫は雄大な眺めに、角笛を握ったまま呟いた。
「まさにサウンドオブミュージック」
「何かしら、それ……」
隣に立っているレウティシアが当然の疑問を返してくる。
この草原は、彼女の嫁ぎ先であるファルサスの一領地であるからして案内を請け負ってくれているのだが、肝心の案内され役であるエリクは早々に城の図書室に行ってしまっていた。 結果として、残された二人はぼんやりと草原を見下ろしているというわけである。
雫は点々と蠢いている羊たちを見下ろす。
「これ、牧羊犬とかいないんですか?」
「それも何かしら。あなたが持っている角笛も気になるのだけれど」
「なんかエリクに持たされてて……とりあえず吹いてみますね」
言うなり雫を角笛を構え、おもいきり息を吹き込む。「ぷー」という暢気な音が草原に鳴り響いた。
二人の間に微妙な沈黙が流れる。

「別に吹けという意味で渡したんじゃないんだけど」
図書室から戻って来た夫にそう言われ、雫は「ええー!?」と驚きの声を上げた。
「何か急に渡されたから意味があるのかと思いましたよ。レウティシアさんも困惑してました」
「特に意味はない。というか君の方が意味を知ってるんじゃなかったのか」
「ええー?」
確かに、羊といえば角笛な気がするが、この世界の常識などは知らない。
首を捻る雫に、領主の城の一室で本を広げ始めたエリクは、一枚の紙を差し出した。そこには雫自身のイラストで、羊飼いが描かれている。
「君、ここで牧羊行われてるって聞いたら、この絵を描いて『羊飼いはかくあるべき』って語ったんだよ。覚えてない?」
「…………覚えてません。いつのことですか」
「この間の論文締切間近の時。ちょっとおかしい時だった」
「ああ……」
言われてみれば、論文に追われて最後の方にはかなり頭がおかしくなっていた。
加えて思い出せば、角笛の必要性について熱く語ったかもしれない。
そんなことは忘れて欲しい、と思うのだが、エリクの基本は「全て覚えている」か「全て忘れる」のどちらかだ。
どれを覚えていてどれを忘れるかなどという一般的な裁量は期待できない。雫は散々吹き鳴らしてきた角笛を見つめた。
「理解しました……。角笛吹くのちょっと楽しかったです。ありがとうございます」
「僕の方の調べものはまだもう少しかかりそうだから。しばらく外で吹いてきていいよ」
「いえ、もう一生分くらい吹きましたんで。領民の人にもかわいそうな子を見る目で見られましたし」
「羊を追いかけまわしていいよ」
「それより、もう締切ぎりぎりにならないように次の論文準備始めます」
酒をほとんど飲まないから油断していたが、締切間近になるとどうやら自分は奇行に走るらしい。
論文締切だろうが発表間近だろうが微塵も変わらない夫を羨ましく思いつつ、雫は窓に歩み寄ると、もう一度だけ角笛を吹いた。
「ぷー」という切ない音は緑の草原にこだまし、領民たちに「城から来てる人は変な人」ということを知らしめたのだった。