神の名の下に

mudan tensai genkin desu -yuki

その帯が月白に届けられたのは、月の皓々と明るい夜更け過ぎのことだった。

古き正統、と呼ばれる北の妓館「月白」には、一人の美しい神がいる。
表向きは娼妓として、そして神話正統の館主として在る彼女の名はサァリーディ。
艶美ながらも何処か無垢を感じさせる、神話の街の姫だ。
―――― そして、化生斬りである彼の妻でもある。

「サァリ―ディ、珍しいな」
ついそんな声をシシュが上げたのは、夜になって店を開けた彼女の装いがいつもと違っていたからだ。
灯り籠に火を入れようと三和土に下りてきたサァリは、着物こそいつもの白いものだが、帯が違っている。
銀糸の刺繍がふんだんに施されたその帯はシシュの初めて見るもので、色のない無数の花弁が―――― 何故か少し忌まわしく見えた。
シシュの問いに、サァリは口端を上げて微笑む。
「借り物なの。今日は特別なお客様が来るから」
「そうなのか」
反射で頷きながらも、シシュは彼女の返答を訝しく思った。
妓館の主であるサァリは、基本的に身に着けるものを厳選している。
派手すぎず、地味すぎない、上質なものばかりを選ぶ彼女はまた、借り物自体身に着けることはないはずだ。
それがわざわざ「特別な客」のために借り物を選ぶというのだから、そこには何らかの意図がある、のだろう。
―――― そしてそれは、おそらく妓館の主としての領域の話だ。
普段からその手の話に踏みこまぬことを主義としているシシュは、見慣れぬ帯から意識を外すと自分は断って見回りに行こうとした。
しかしサァリは、うっすらと微笑して夫を呼び止める。
「待って、シシュ」
「どうした」
「此処にいて」
短い要請は、懇願のような言葉でありながら、しかし実のところ有無を言わさぬ力に満ちている。
館の主としてだけではない。神供である彼を繋ぐ神としての要請。
薄く光る青い瞳を見たシシュは、思わず言葉を飲みこむと彼女の貌を覗きこんだ。先程と同じ問を返す。
「どうかしたのか?」
「何も。ただいて欲しいだけ。駄目?」
「いや……平気だ。同席した方がいいのか?」
「多分大丈夫。すぐ終わると思うし」
陶器の貝に似た瞼が、瞳の剣呑さを多い隠して伏せられる。
銀色の髪が灯りを反射して妖しく輝き、形のよい唇もまた明るい朱で彩られた。
サァリーディはシシュを見上げ直すと、愛らしくも相好を崩す。
そうして可憐に微笑み直した彼女はいつも通り艶やかで―――― 今夜も変わらぬ、彼の妻だった。



月白に来る客は余程の馴染を覗き、まず一度「花の間」に通される。
そこで娼妓に選ばれてようやく、客室に入ることが可能になるのだ。
だがこの日やって来た二人組の客は、最初からある客間に通された。
娼妓が客を取る為の部屋ではない。主が来客を迎えるための部屋は、一階のもっとも奥に位置している。
飾り気のない小さな和室は、ともすれば殺風景にも思える造りではあるが、その質素さも主である女と一対だと思えば納得出来る。
サァリ一人が座しただけで、室内の空気が質を変えるのを見て、シシュは思わず感心した。
「こんな部屋があったんだな」
「うん。私は滅多に使わないんだけど。昔は商談とかに使ってたみたい。あ、シシュは奥にいてね」
上座に座したサァリは奥の襖を指し示す。頷いたシシュがそこを開けると、中は小さな板の間になっていた。
調度品の一つもない板の間だが、何に使うものかはすぐに察しが付く。
シシュが振り返ると、サァリも彼が察したことに気づいたらしい。月白の主は口元だけを微笑ませた。
「不要だったらいいんだけど。付き合わせてごめんね」
「構わない。当然のことだ」
―――― 下女がやって来て二人に来客を告げたのは、その直後のことだった。

客間に通されてきたのは、若い二人の男女だ。
二十歳を過ぎたばかりくらいの洋装の女と、彼女に付き従う寡黙な男。
何処となく自分たちと似てなくもない取り合わせを、シシュが板の間から窺い知ることが出来たのは、ひとえに人ならざる感覚の広範囲さゆえだ。
神の伴侶である彼は、既に視覚からして人とは違う。
当然、サァリ自身も似たようなことが可能であるはずだが、彼女よりもシシュの方がずっとこの感覚を使いこなしている。
現に来客の女の方が、部屋に入るなりサァリを見てぎょっとしたことを、彼は手に取るように知覚していた。
サァリの声が二人を促す。
「どうぞお座りくださいな」
柔らかな声音は、しかしその内に揺るがぬ冷やかさを宿している。
抑えてはいるもののサァリの持つ気に怯んでいた女は、我に返るとそそくさと彼女の向かいに座った。押し殺した息を洩らす。
「―――― 今日お伺いした用件ですが」
「ええ」
「先に書簡にてお伝えしたように、先日、わたくしの屋敷に賊が押し入りまして……」
女はそこで言葉に詰まった。
サァリは微笑んだまま、続きを待っている。

月の皓々と明るい晩のことだった。
アイリーデの北の外れにあるこの館に、一人の薄汚れた女が駆けこんできた。
その話を、シシュは後で人伝に聞いたのだ。
そして女がサァリに、「何か」を預けて行ったのだということも。

言い淀んだままの女に、サァリは穏やかな声をかける。
「ご用件があっていらしたのでしょう。生憎と、私もそう時間が余っている訳ではないのです」
女は応えない。
青ざめた顔のまま微かに肩を震わせている。
サァリは滑らかな動作で立ち上がった。
「―――― この帯は、ある古物商から買い上げました」
「なら……」
安堵と不安が、女の瞳によぎる。
だがサァリの言葉が、すぐにそれを打ち砕いた。
「よい帯ではあるのですが、何分、難があるとのことで特別に譲って頂いたのです」
「っ、ぁ……そ、それを売って頂くことは出来ませんか? 実はその帯は義母のものでして……ですが先程お話した事件のせいで行方が分からなく……」
女のうろたえた視線が、周囲のものを落ち着きなく捉える。
それとは反対に泰然として在るサァリは、月光の如き艶笑を見せた。
「どのような難があるのか、お聞きにならないのですか?」



場が動く。
ほぼ同時に立ち上がったのは、シシュと客の男だ。男は愕然としている連れの脇を過ぎると、座卓を乗り越えサァリへ手を伸ばす。
しかし彼女の首をつかみ取ろうとしたその手は、軍刀の鋭い切っ先を前に空中で静止した。
サァリを左腕の中に引き取ったシシュが、短く宣告する。
「巫に触れるな」
「……シシュ、早い」
驚いた声を上げるサァリは、その一瞬だけ愛らしい彼の妻だ。
しかし彼女はすぐに酷薄な笑顔に戻ると、目の前の男と硬直している女に視線を戻した。
「結論を急くならば、初めからそうしていればよかったでしょうに」
「何を……」
「この帯にあの晩の痕跡が残っていると、気づいていたから探していたのでしょう? 古物商が仲介したと聞いて、消されたのかもと安心しましたね? ですが残念ながら…………何もかもそのままです」
サァリの左手が帯の前側を押さえる。それをしながら彼女は、右手で己の帯を解き始めた。ぎょっとするシシュを気配だけで押し留めて、彼女は銀糸で彩られた白い帯を片手で広げて見せる。
そこには、黒く変色した血の―――― 手形がついていた。

「すぐに回収しなかったのは迂闊でしたね。それとも自分の手形がついたとは思っていなかったのでしょうか?」
サァリが広げて見せた帯の手形は、大きさからして女の手のものだ。
それをつけてしまったのであろう客の女は、膝に手をついて肩を震わせていた。
俯いたままの女の上に、サァリの声が降る。
「色々と生憎なことでしたわ。この帯は―――― 元を辿ればこの妓館のものなのでございます。ですから、受け継ぐ人間が絶えれば自然に月白へと戻って来る、そういう約束になっているのです」
力ある声音は、女の全身を上から押さえつけるようだ。
震える女は顔を上げることもできず、またシシュに刀を突きつけられた男は空気を食むように声なく喘いだ。
動けない二人に、サァリは軽く首を傾けて微笑む。
「とは言え……何があったのだとしても、所詮アイリーデの外のお話。わたくしからは何をするつもりもございません。この帯は古い約がございますれば、わたくしが引き取らせて頂きますが……別に構いませんでしょう? わたくしの帯を解く男は、この人一人しかおりませんし」
「……サァリーディ」
思わず脱力して、シシュは腕の中の妻を見たが、サァリは機嫌のよさそうな笑顔で二人を見据えているままだ。
経験上、それが怒りと紙一重の上機嫌であると知っているシシュは、彼女を下がらせる機を探る。
しかしそれよりも早く、客の女が掠れた声を絞り出した。
「全てを……胸の内に納めてくださるというのなら」
「ええ」
沈黙が流れる。
重い溜息の音が落ちる。
「あなたに、お預けいたします」
そして二人の来客は、来た時と同じく何も持たぬまま帰っていった。






帯掛けに広げられた帯は、黒い手形がついてる以外は何ら普通と変わらない上質なものだ。
うとうとと浅い夢を見ている妻を隣に置いて、その帯を見上げたシシュは、改めて知る月白の不思議を噛みしめていた。床の上に広がった銀髪を、空いた手で撫でる。
「帯が戻って来るなどあるのだな」
「……うん。大抵はね、身請けされた娼妓の写し身が持ってくるの」
「ああ……」
実在の人間とそっくり同じ姿として現れる「写し身」という化生。
人の情念を写し取ったそれが、かつて世話になった館に継ぐ者のいなくなった品を返しに来るのだろう。
―――― 神話の街に存在する化生と巫。
相対するはずの彼らの、人知れぬ側面に、シシュは遥か遠くから続く時の重みを思う。
そしてその先端に在る自分たちのことも。
「サァリーディ」
「ん……今日はありがとうね、シシュ」
名を呼んで寄り添う。
選び取った伴侶と有限の時を分かち合う。
神に捧げられた静謐は、人の落とす波紋によっても変わらぬままだ。シシュは月光に染まる帯から視線を外すと、夜気を食んで目を閉じた。
そっと握った指はひんやりとして、けれど肌の下には確かに穏やかな熱が沈んでいた。