一人旅

mudan tensai genkin desu -yuki

長い休暇をもらったのはつい先日のことだ。
何をやらかしたというわけではない。単に所属が変わった。それに伴う休暇が発生したというだけのことだ。
彼に休暇をくれた主君は「せっかくだから旅にでも行ってきたらどうだ」と言った。
それは、たいした意味もない戯れの言葉であったのだろう。主君の言葉はいつもそうで、だが全てが本気なのだ。
だから彼は、その言葉を機に、本当に旅に出てみることにした。
その行き先になんということのない小さな町を選んだのは、単にそこが珍しくも暗黒時代から存在する町だったからだ。

「へえ、魔法士さんなの」
宿の女主人は、彼を迎えて興味がなさそうにそう言った。
魔法大国であるこのファルサスでは、魔法士などそう珍しくもない。
それでも「宮廷魔法士なのだ」と身分を明らかにすればさすがに珍しがられただろうが、あえて面倒事の種を蒔くような真似はしない。
彼は頷いて部屋に入ると荷物を下した。二階の窓から小さな町を見下ろす。
そして、息を飲んだ。
―――― 町の中心を貫いて南北に、古い城壁跡が残っている。
暗黒時代から残る歴史の一欠片。今はもう、子供の背丈ほどしかない石積みの城壁を、彼は食い入るように見つめた。
胸の中に「旅に来たのだ」という実感がじわりと湧きだす。
彼は荷解きもそこそこに宿を出ると、城壁跡に沿って作られた町の大通りへと向かった。
大きな街道からは外れた町とあって、旅人などはほとんどいない。行き交うのは町の人間ばかりだ。
ただ彼らもこの城壁跡が貴重なもので、見に来る者が多々いるということには慣れきっているのだろう。
やって来るなりぺたぺたと城壁を触り始める彼を、気にするわけでもなく通り過ぎて行った。
彼は焼け焦げた石のひんやりとした感触に、遠い過去へと意識を巡らせる。
「すごいな」
今まで研究の為に実地調査に来たことは何度もあるが、その度に時の積み重ねには感じ入ってしまう。
何百年も昔、この場所で暮らし、戦った人々がいた。
その息遣いに触れる時、実感するのだ。―――― 自分もまた、やがて消え去る砂の一粒に過ぎないのだと。

この城壁について触れた論文は多くない。
それも研究者たちからは「古いだけのもの」と看做されているのが大半だ。
だがその中に一つだけ、変わった記述があったのを彼は覚えていた。
『もしあなたが魔法士であるなら、実際にこの城壁跡を見て、触れて欲しい』
あとがきの最後にあったこれだけの文。
一見して何の変哲もない文だが、彼はそれが「魔法士であるなら」と限定されていることが気になっていた。
城壁を見に行くだけのことに、魔法士もそうでない人間も関係ないはずだ。
にもかかわらず何故こんな記述があるのか。機会があったら確かめてみたいと思っていた。
その機会が、当の論文を読んでから十年後になってしまったのはご愛嬌だ。彼は城壁に触れている自分の手を見つめる。
だが、指先から伝わって来る感触の他には、なんら変わったことはない。
彼はしばらく待って、期待と落胆を交換すると息をついた。
「まあ……こんなものか」
大人になるということは、ささいな落胆を積み重ねていくことだ、などと言うつもりはない。
ただこういった落胆には既に慣れきっている。彼は城壁から手を離すと、それに沿って通りを歩き始めた。
残りの日程はどうのんびり過ごそうか、と考え出したところで―――― あることに気づく。
「あれ、あそこ」
黒く焦げた城壁のうち、一箇所だけ微妙に色合いが異なっている。
周囲と同じ黒ではあるが、少しだけ色が濃い。
何かあってこうなったのか、彼は色の違う壁の前に歩み寄った。ほんの少し迷って、手を触れさせる。
―――― 次の瞬間、頭の中に男の声が響いた。

『後世の魔法士に伝える』

ぎょっとして、彼は手を引く。
聞き間違いかとも思ったが、そうではない。この壁に、何らかの魔法がかかっているのだ。
彼はそのことに気づくと、再び心の準備をして手を伸ばした。
劣化防止と、最初から焦げていたように見せる偽装と、そして「声」がこめられた壁に触れる。
初めて聞く男の声は言った。

『後世の魔法士に伝える。―――― 俺は、トゥルダール初代国王オーティスという』

それは、遥か昔の魔法大国の建国王が残した、千年を越える魔法の言葉だった。

「で、何て内容だったの?」
休暇も終わり城に戻った彼は、友の興味を向けられ笑った。
普段感情が薄く見えるこの友人は、だが実際のところ好奇心の塊だ。この城壁についても、自分で行ってみたいと思っているに違いない。
だから彼は、出来るだけ友の興味を損なわないよう気を付けながら、質問に答えた。
「普通の内容だったよ。当時の状況とか国同士の関係とか……。取り立てて目新しい話ではなかったけど面白かった」
「へえ。トゥルダールの建国王か。真偽はさておき面白いね」
「元々あの城壁は地中に埋まっていた部分らしいから。戦乱で上の城が崩れて剥き出しになって、そこに町が出来たんだろう。王はそうやって城壁が人目に触れる日を考えてあの言葉を残していた」

魔法大国トゥルダールは、遥か昔に滅んだ国だ。
今その名が残っているのは、暗黒時代にあって魔法士の人権を守るために創られた国という経緯と、その最後の女王が滅亡から数百年を経てファルサス王妃になったという数奇な話の影響でしかない。

彼は王の言葉を反芻する。
「魔法士が平和に暮らせている世であって欲しいって言ってたよ。なんか不器用そうな人だった」
「なるほど。トゥルダールの人間らしいね」
「お前も聞きに行ってみろよ」
取り立てて目新しい話では、本当になかった。
ただ胸に染み入った。あの暗黒の時代、迫害の一途を辿っていた魔法士たちを救うために立ち上がった男の話というものは。
だから彼は、あの言葉を聞いた自分が平穏な時代に生きる人間でよかったと思う。
過去からの願いを、引け目なく受け止めることの出来る時代の人間。そしてそれを保つために生きられる人間だ。

『この城壁が、遠い未来には無用の置物になっていることを願う』

そんな言葉を受けて彼は微笑む。
風化を受けてもなお今に届くもの。そんなものの為に、また旅に出ようと思った。