女神の祝福

mudan tensai genkin desu -yuki

「本当はいっぱい色んな術があるの」と小さな帳面を見ながらサァリは言った。

話の切っ掛けは些細なことであったと思う。たとえば余所の街で出会った占いを専門とする巫の話などだった。
そこからどう拗れてこんな話になったのかシシュは分からないが、サァリは離れにある自分の部屋から戻ってくると、小さな帳面を彼に示したのだ。
「何だこれは。子供の字か?」
「私が昔書いたの。祖母に聞いた術とか書き留めて……子供に教えるようなものだから他愛無いものなんだけど」
「術があるのか。もっと巫は力技しか出来ないかと思っていた」
「…………」
少女の青い眼がじっとりと細められたということは、何か不味い発言をしてしまったのかもしれない。
いつもならここでトーマの表情を窺って事態の不味さ加減を判断するところだが、彼は今日に限って早々にイーシアの部屋に行ってしまっていた。月白の主の間に少女と二人きりのシシュは、何通りかの不味い事態を想像する。
しかしサァリは頬を膨らませて座りなおしただけだった。
「巫としての力は生まれてから死ぬまであるけど、年を取るにつれて弱まってくから。そうなったら技術に頼ったりもするの」
「ああ……そういうものなのか。子供を産むからか?」
「んー。それもあると思うけど、多分存在が人間に近くなっていくんじゃないかな。精神は環境に影響を受けるし、存在は精神に影響を受けるから」
「そんなものか」
分かるような分からないような話ではあるが、彼女たちの在り方というものは人間には容易く理解できないものなのだろう。
サァリは手書きの帳面をめくりだす。
「私だって頑張れば色々できるんだからね! 多分」
「多分なのか……」
「ちょっとシシュにかけてみていい?」
「どうしてそうなる。というかその『犬に好かれる術』とかをかけてみる気じゃないだろうな」
「好かれたら嬉しくない?」
「まったく。やめてくれ」
そのようなことになったら見回りに支障が出るだけだ。アイリーデに野良犬などはほとんどいないが、犬を飼っている娼妓はちらほらいる。シシュは自分が犬にたかられる光景を想像して、げっそりと息を吐いた。
苦情で懲りていないのか、サァリはなおも帳面をめくる。
「あ、これとかどうかな。胃痛を和らげる術。シシュにぴったりな気がする」
「薬を飲めばいいだろう。というか俺にぴったりとはどういう意味だ」
心痛の原因を区分けしたら、目の前の少女が三割程は担っている気がする。白眼になった彼を前に、サァリは慌てた様子で残りをめくった。
最後の一枚を見て、顔を上げる。
「じゃあ、これでいい? いいことに巡りあいやすくなる、って術」
「いやだから別に―――― 」
要らない、と言いかけたシシュは、上目遣いの少女と視線があってその言葉を飲み込んだ。機嫌を窺っているような、期待しているようないじらしい眼差しに何も言えなくなる。
ややあって彼は「それでいい」と頭を垂れた。

どのような術かと恐れていたが、実際少しの呪と少女の手が額に触れただけで、後は何も変わりがなかった。
「いいことあったら教えてね!」と嬉しそうに見送りに出たサァリと別れて、シシュは夜の街の見回りに戻る。
それから三日間、とりたてて「いいこと」はなかった。



巫である少女が、汗だくで道に座り込んでいるのはもうすっかり見慣れた光景になってしまった。
要請を出し共に化生を追っていた黄昏時、刀を鞘に収めたシシュは、サァリに手を差しのべる。彼女はその手に縋ってよろめきながらも立ちあがった。
「つ、疲れた……」
「すまない」
「うう、大丈夫」
乱れた銀髪を直してやりたいと思うのだが、直し方がさっぱり分からない。シシュはただ、汗で髪が張り付いたうなじを見下ろす。
そうしているうちにサァリは自分で簪を引き抜いて、崩れかけた着物を直した。「よし」と小さく呟いて姿勢を正す。
途端、きちんと妓館の主に見えるのだから、アイリーデで生まれ育った人間というものは、根本からして余所の人間と違うのだろう。
サァリは彼と並んで歩きながら、思い出したように手を打った。
「そういえば、いいことあった?」
「特には」
「あれ……」
ただでさえ疲れている少女が力ない返事をしたことに、シシュはいささか慌てた。嘘でも効果があったと言った方がよかったかと後悔する。
しかしサァリは難しい顔で黙り込んでしまうと、少しして遠慮がちに彼の袖を引いた。恥ずかしそうな目で青年を見仰ぐ。
「あの、この後月白に来られる?」
「……別に構わないが」
「本当!? じゃあお茶出すね! 凄く珍しいの手に入れられたから!」
茶の選定に関しては、サァリの目利きは確かだ。彼女がそう言うくらいであるなら、いい茶葉が入っているのだろう。
シシュは少なくない期待に微苦笑する。その半分は、飛び跳ねている少女が嬉しそうだからという理由もあった。
先程までもう一歩も走れなそうだったサァリは、気が急いて仕方ないのか青年の腕を引いた。悪戯っぽい目で微笑む。
「―――― ね、いいことあった?」
期待に満ちた問いかけ。彼女の意図を理解したシシュは言葉にならない感情を飲む。
そうして彼は一拍を置くと、美しい神に向かって「それは反則だろう」と返した。

月白で出されたお茶は文句なく絶品だった。
その後しかしシシュは「犬に好かれる術」をかけられ、こちらはきちんと効果を出したのである。