脱獄囚

mudan tensai genkin desu -yuki

長い年月を、魔女として一人生きてきた。



「ティナーシャ様! 大変です」
そんな叫びを上げて執務室に飛びこんできたのは、政務官の一人だ。
王妃として夫が不在の間、執務を任されていた魔女は軽く眉を上げる。
「どうしました? 要点から教えて下さい」
人を通さずに、直接王の執務室に持ちこまれる話とくれば、大抵が面倒事だ。
それら面倒事のほとんどを何とかする力を持っている王妃は、だが次の言葉を聞いて苦りきった顔になった。
政務官の男は、息も絶え絶えに言う。
「じょ、城下の牢に入れられていた男が、看守を殺して脱走しました!」

ファルサス城都において、罪を犯した人間は、城下にいくつかある牢に収監されることになっている。
その上で罰の決定を待つのだが、当の男は余所の街から来た流れ者で、酔った勢いで一人を殺して捕まっていたのだという。
報せを聞いて、地下にある牢に下りてきたティナーシャは、立ちこめる血の匂いに美しい顔を顰める。
「それで、どうやって牢を開けられたんです?」
「分かりません。私どもが駆けつけた時には牢は元通り施錠されておりまして……。看守がそこに倒れて事切れておりました」
王妃直々の調査を受けて、恐縮する兵士が指さしたのは、牢の鉄格子扉の前の石床だ。
通路に当たるその場所には、拭いきられていない血の跡が広がっている。
ティナーシャは白い顎に指をかけて考えこんだ。
「死因は分かっていますか?」
「首を刃物で切られたようです」
「魔法ではなく?」
ティナーシャが念押しすると、兵士は当惑の顔になる。
この国の最高決定機関は他でもない彼女の夫だが、ちょっとした事件くらいなら王の耳にまでは届かないのだ。
その場合、兵士たちは彼らの視野で物事を調べ、解決することになる。
彼らにとって、剣傷と魔法傷を後から見分けることは難しいかもしれない。
ティナーシャは頷くと、兵士に命じた。
「分かりました。この牢にはもう犯人の男はいないようですから。捜索を出させるのでそっちを手伝ってください」
「あ、はい! どなたが捜索に……」
「私の精霊が」
ぱちん、と魔女は指を弾く。
その音に応えて、彼女の前に赤い髪の少女が現れた。
真紅の髪と瞳、人ならざる存在である精霊は、まるで人間のように人なつこく微笑む。
「ティナーシャ様、ご命令は?」
「この牢より外で、人を殺したことのある人間を探してください。時刻は日没まで」
「かしこまりました!」
軽く膝を折ると、精霊の少女は駆けて牢を出ていく。
魔法で転移しないのは兵士たちへの配慮だろう。その後を慌てて数人の兵士が追って行った。
ティナーシャをここへ案内してきた兵士が、恐る恐る彼女に問う。
「あの、日没といってももうすぐですが、それで本当に……」
「大丈夫です。貴方も行ってください。さあ」
最強の魔女であり、王妃でもある彼女にそう言われては、食い下がって異を唱えることはできない。
兵士は深々と頭を下げると、自らも捜索に行くため駆け去った。
他に人の姿がなくなり、血の匂いだけが残る薄暗い地下牢をティナーシャは見回す。



長い年月を、魔女として一人生きてきた。
今自分が持っている力も知識も、その時に身につけたものだ。
人に忌まれ、畏れられる存在。
―――― ならば王妃となった今、自分はどのように生きるべきなのか。

そんなことを、ふっと考えることもある。



ティナーシャは血の跡の上に立つと、軽く手を振った。
カチャリ、と錠の外れる音がして、牢の扉がひとりでに開く。
彼女は薄暗い中へと無造作に踏み入った。長い黒髪を右手で払って―――― その右手で、何もない宙を掴む。
他に誰もいないはずの牢に、男の呻き声が上がった。
ティナーシャは小さな溜息をつく。
「姿を見えなくさせる魔法ですか。それは流れ者程度なら好き放題できるでしょうね」
「…………っ、この……」
「抵抗は無駄なのでお勧めしませんよ」
前を見たまま、ティナーシャは冷やかに宣告する。
空中を掴む彼女の手の中には、確かに見えない男の歯軋りする感覚が伝わってきていた。
「牢までは魔法で出ることが出来なかったんですね。だから姿を見えなくさせて、看守を呼び寄せた……。でも看守は驚いても牢を開けようとはしなかったんでしょう。だから殺した。こうして調べに入られた時に、逃げ出せるように」
見えない男を、五指だけで完全に拘束しながら、魔女は謳った。
「行き当たりばったりなやり方ですが、上手くいったでしょうね。―――― 私が呼ばれなければ」

逃げるために兵士を殺した男は、そうして魔女を呼びこんだ。
結果的に、己の運命を自ら決したのだ。
そのことをティナーシャは憐れまない。

王妃は闇色の目を伏せて微笑する。
「とは言え、皆は外に行ってしまいましたし、貴方は既に牢から逃げたことになっています」
「……そ、れは、お前が」
「ええ」
精霊まで出して、人払いをしたのはティナーシャ自身だ。
そして最初から精霊には「この牢より外で人殺しを探せ」と命じてある。
彼らは日没までのほんの短い時間、精霊を頼りに城都を彷徨うことになるだろう。
最初から分かっていて、そうさせた魔女はくすりと笑う。
「もう牢にいない人間ですから、このまま殺しても構いませんよね」
「……ッ」
「安心しなさい。肉の一片も残しませんから……やり過ぎた己を呪いなさい」
何もない空中から絶句する気配が伝わってくる。
魔女は、うっすらと美しく微笑んだ。
伏せられた長い睫毛が艶やかに牢に映える。

そして地下牢には、血の匂いだけが再び漂った。






兵士を殺して脱獄した犯人は、精霊の調査によって「城都にはもういない」と結論づけられた。
夜になって帰ってきた夫に一通りの報告を済ませたティナーシャは、宙に浮いたまま小さく苦笑する。
「勝手なことをしてすみません。あれから全部の牢に魔法構成禁止を敷いてきました」
「それは助かる。けど、お前が手を汚す必要はなかったんだぞ。俺はそこまで狭量じゃない。どのように死んだとしても、任務中の死だ」
私室とあって、寝台の上で胡坐をかいているオスカーは、妻の独断専行に釘を刺した。
ティナーシャはそれを聞いて肩を竦める。
―――― 囚人の魔法に騙されて死ぬのと、脱獄した囚人と戦って殺されるのでは、後者の方が死者の名誉が守られる。
そんなことを彼女が考えたのは確かだ。だが、それだけが理由でもない。
「私が、ああいうの厭なんですよ。魔法に淫して好きに振る舞うような輩が。……自分を見ているようです」
だから、己が手で清算をしたくなる。
魔法を操る最たる者―― 魔女として、そのような人間の蛮行を許したくないのだ。
「もっとも、誰よりも人を殺しているのは私なんですけど」
だから、王の手を汚さずに動けるのは自分しかいない、とも思う。
元々が夜に生きる存在だ。王妃となった後も、その過去が、本質が、変わるわけではない。
ならばせめて、血腥いことは引き受けてしかるべきだ、そう自嘲を込めて語るティナーシャに、オスカーは軽く眉を上げると、ただ微笑した。
「気にせず堂々としてろ。―――― 俺が選んだ女だ」

正も負も、何ら枷にはならないと、王は笑う。
長い年月も拭えない血も、最初から分かっていて、少しも問題にはならないのだと。

揺るがぬ自信を見せる夫に、ティナーシャは目を丸くした。
だが、驚いたのもほんの一瞬、彼女はふっと相好を崩す。
「貴方には救われます」
「俺が何言ってもお前は自由にしてるけどな」
「お互い様ですね、それ」
―――― 魔女として生きてきた長い年月。
その終わりに共にいる相手が彼であることを、ただ幸福に思う。
ティナーシャは夫の隣に戻ると、目を閉じて時の流れを回顧する。
空では青い月が、かつてと変わらぬ淡い光を纏っていた。