深海の調べ

mudan tensai genkin desu -yuki

人間の手は温かい。
そのことを知ったのは、気紛れに彼らの位階に現出してからのことだ。
自身にも温度がある。―――― そして相手にも。
触れた手から伝わる存在。それは気持ちの悪い、だが不思議な感覚だった。



「おぬしはいつも無駄に忙しそうじゃなあ」
「……あ?」
広い荒野を右往左往して職人たちと話し合っていた男は、彼女の呟きに不機嫌そうに顔を顰めた。町を建てる為の書類を手に、宙に浮かんでいる魔族を見上げる。
「忙しいっつーのはその通りだけどよ、無駄にってなんだ、無駄にって」
「無駄に動いているじゃろう」
「必要だから動いてんだよ」
そう言い捨てる男は、彼女からするとまた無駄に先程もいた場所に戻ろうとする。
だが今度は、前に向き直ったまま彼女に手を差し出してきた。
「ほら、来い。エルシリア」
「妾も巻き添えにするつもりか?」
「お前の主人は俺」
ぶっきらぼうな言葉は、彼女からすると不遜なものだ。
彼が主人であるのは、まず彼女がそれを許しているからであり、実力の差は甚だしい。
計画ではいずれこの差は逆転するものであったが、今のところは子供に駄々をこねられているようなものだ。
エルシリアはふっと笑いかけて、だが大人しくその手を取った。今この場には他の人間たちの目もある。主人の立場というものも考えなければいけない。
名目上この場で一番偉い人間であるオーティスは、宙に浮く女の手を引いて歩き出した。立ち止まった先で石工職人と新たな話を始める。
少し雲のかかった青空。掌から伝わる温度に、エルシリアは半分の不快と半分の安らぎを覚えた。天を仰いだまま呟く。
「海を見てみたいのう」
「―――― なんだ急に。勝手に見て来ればいいだろうが」
「妾はおぬしに使役されているからのう。勝手に離れられぬのじゃ」
「行ってきていい。夜には帰れよ」
あっさりとした言葉は信用の表れなのだろうが、エルシリアは面白くない気分を抱いた。
自分一人ではすぐに死にかねない脆弱な人間の癖に何を言っているのか。離された手をエルシリアはじっと見つめる。
地上から聞こえてくる人間たちの声。彼女は小さく欠伸をして目を閉じた。
「……まったく騒がしい」
このような時に自分の出る幕もないだろう。
エルシリアは聴覚を遮断し、しばしの眠りについた。



どれくらい眠っていたかは分からない。
気がつくと空には月が浮いており、辺りには誰もいなくなっていた。
正確には、残っているのは彼女の主人である男だけでおり、他に人間の姿は見えない。
まだ何もない荒野に座るオーティスは、魔法の乏しい明かりで何やら書き付けを取っていたようであり―――― 今は疲れたのか転寝をしていた。
エルシリアは地上に下りると、男の前にしゃがみこむ。
「何をやっている?」
答は返ってこない。オーティスは目覚めない。
エルシリアはそっと手を伸ばして、男の前髪をかき上げた。眉間に皺を寄せて眠っている彼を観察する。
造作は、若い。実年齢が若いのだから当然だ。
だがその顔立ちは積み重ねてきた苦労のせいか、時に老人のように見えることもあった。
彼女からすれば、身に余る荷を負って歩き続ける男。エルシリアは思わず小さな吐息を零した。
「馬鹿じゃの」
エルシリアのことなど放って野営地に帰ればよかっただろう。彼女を害せる者など、この位階にはほとんど存在していないのだから。
だがそれが出来ないのもオーティスという男だ。
エルシリアはしばらく彼を見つめていたが、ふと思いついたように冷たい地面に横たわった。長い髪が汚れるのも構わず、眠ったままの男の膝に頭を預けて自分も目を閉じる。



誰もいない。何もない。
青い月光。
遠くを吹く風の音だけが聞こえる。
まるで深い海の底にいるかのようだ。
繋がらないものを繋ぐ空気。
エルシリアは男の手を探して握る。
―――― 温かさが、不思議だった。






朝日が昇る頃目が覚めた男は、眠っている彼女に気づき、怒った。
「お前、起こせよな……。そんなところで横になったら風邪引くだろうが」
「妾は風邪など引かぬ」
「俺が引く。ってかもうちょっと我慢してろよ。落ち着いたら海連れてってやるから」
そうしてまた忙しく働き始める男の頭上で、エルシリアは無駄な時間を過ごす。
日の光の下、多くの人間と共にいる時には海の音は聞こえない。
だが彼女にはそれも、不快ではなかった。