著名人

mudan tensai genkin desu -yuki

両親の名前を、家以外で見ることは多々ある。
それは父親が宮廷魔法士で、母親がやはり城所属の研究者であることが原因だろう。
その日も調べものをしていたシスイは、二年前の紀要に父の論文を見つけて手を止める。
「これは……」
今、調べていたものとは関係のない研究主題。だが、身内が書いたことを差し引いても興味を引く内容だ。
『文化の及ぼす言語への影響力』と題されたその論文を、シスイはぱらぱらとめくる。
多少の方言があるとは言え、この大陸の言語は共通だ。
にもかかわらず父の論文では、風土によってこれから先の数百年で、言語が枝分かれしていく可能性について示唆している。
今まで―――― 千年以上もの間、言語の枝分かれなど起きなかったのだ。
にもかかわらず何故このような机上の空論をわざわざ論文として発表したのか。
シスイは若干意外に思って当の紀要を小脇に抱えた。探していた資料とあわせて貸出手続きを取る。

彼が、その論文について父に聞くことが出来たのはしばらく後のことだ。
取りかかっていた案件が片付いて一息ついた時、家に父親がいた。そんな空隙に話題に乗せたのだ。
居間のテーブルに雑多な資料本を広げていた父は、息子の疑問を聞いて首を捻る。
「なんであんな論文を書いたかって?」
「そう。珍しいなって。父さんの研究にしてはちょっと毛色が違うし」
父が、言語に強い興味を持っていることは知っているが、普段は魔法文字にその興味が集中しているのだ。
実際、ざっと調べてみたが日常言語について触れている論文はこの一つだけだった。
乾いた好奇心をもって尋ねるシスイに、父は頬杖をついて返す。
「書く必要があったからと、単純に書きたかったからだよ」
「書く必要があった?」
父のそのような言い方は珍しい。「書きたかった」ならいつものことだが、研究において必要性が先に立つのは稀だ。
息子の疑問に、父は苦笑にも見える表情になる。
「当分は必要性が分からないと思うよ。それこそ数百年先の話だ」
「数百年先に必要になるってこと?」
「誰かが資料を遡った時、この時代にああいうものが書かれていることが分かれば、少しは足しになる」
「足しにって、何の?」
まさか本当に、数百年後には言語が枝分かれしているとでも言うのだろうか。
シスイは冗談かと思って父を見たが、いつも通り冗談を言っている様子ではない。
―――― その目が何処までを見ているのか。
思わずぞっとして、シスイは身を固くした。
自分には分からぬ何かが、父の思考に含まれている。それが何であるのか、何故か無性に怖かった。
父の視線が、ふっと窓の外に向けられる。
「本当は彼女が書いた方がいいのかもしれないけれど、そこまでの荷を負わなくてもいいと思ったんだ。どっちみち、彼女を手繰れば僕に突き当たる」
「……それって」
思い浮かんだ人物は一人だ。
そしておそらく、間違っていない。
根源的な不安をシスイは抱く。自分がその不安の正体を、一生知ることはないのだろうという予感も。

いつか、遠い未来に。
誰かが砂漠の中の砂一粒を探り当てるように。
父の書いた、この論文を読むのだろう。
そして、何かを識る。
―――― そんな光景が、脳裏をよぎる。

「途方もない」
ぽつりと呟いてしまったのは、半ば無意識でのことだ。
父はそれを聞いて、今度こそはっきりと苦笑する。
「君は好きにすればいい。これは、僕たちの世代の問題だから」
「それはそうなんだろうけど」
研究は、そして思想は自由だ。彼らはそれが許される国に生きている。
シスイは席を立つと、ふと父親を振り返った。掴みどころのないその横顔を眺める。
―――― 自分よりも数歩先に、この人物がいるということは幸運なことなのだろうか。
考えても答は出ない。答を出せるとしたら、それは数十年後か、或いははるか後世のことか。
想像もつかない疑問に、シスイは肩を竦めると居間を出る。
とりあえずは、今の研究に全力を尽くそうと思った。