記憶喪失

mudan tensai genkin desu -yuki

毎日の激務が一瞬途切れた、そんな日のことだった。

街のカフェは賑やかな広場に面しているだけあって人通りが多い。
笑い合いながら歩いていく恋人たちや賑やかな家族など、平和な眺めは今が戦時中とはとても思えない光景だ。
小国六国が関わるこの戦争も、七十年も続く泥沼となってはそれ自体が既に日常であるのかもしれない。
うちの一国で政務官及び軍高官を務めている彼は、まだ若い自分の権限の少なさを振り返って溜息をつく。
「……うんざりするな」
彼が全力を尽くしてこの戦争に関わろうとも、一生の半分以上を費やしてしまうことは疑いない。
それが仕事であるのだから当然と言えば当然だが、ふとした空隙に強い倦怠感を覚えるのは事実だ。
内容が内容なだけに、他に愚痴を言う相手もいない。彼は秀麗な顔を顰めて頬杖をついた。
―――― その向かいに、すっと一人の女が腰かける。
「え?」
美しい女だ。
長い黒髪に同じ色の瞳、透き通るような白い肌。
造り物を思わせる異様な美貌は、彼の初めて見るもので、だが彼女は当然のように彼のいるテーブルに座ってきた。
深淵を思わせる眼差しが、彼を見上げる。
「初めまして」
その挨拶に、彼は少しだけ安堵した。やはり初対面でよかったのだと思い、だが不思議な割り切れなさをも味わう。
―――― 本当に、彼女とは初めて会うのだろうか。
そう思った直後、頭の奥がずきりと痛んだ。
何も言わない彼に、女は美しく微笑む。
「私のことを不審に思っていますか? 当然のことだと思いますけど」
「……そんなことは」
「ならこれから不審に思われることを言います。貴方、私と一緒に行きませんか?」
「一緒に? 何のことだ? 一体何処に……」
「何処にという訳ではないんです。こう言い換えた方が分かりやすいでしょうか。私を、貴方のこの先の人生に伴いませんか、と」
「は?」
彼は理解できずに聞き返す。
真向いの女はけれど、目を閉じて微笑んでいるだけだ。
その表情にも態度にも、まったく怯むところがない。求婚に似たさらりとした提示さえ、当然のもののように座していた。
彼は、驚きの硬直から抜け出すと、聞き返す。
「一体何を言っているんだ」
人をからかうにしても、意味がわからない。
目の間の彼女は神秘的なまでに美しい容姿をしているが、中身がおかしくてはその魅力も半減だ。
ようやく我に返って不快を面に出す彼に、女はくすりと微笑む。
「簡単なことです。貴方に一目惚れしました。だから私と一緒に、どこか遠くに行きませんか?」
「……は?」
ぽかんとする彼の目の前で、女は美しく微笑む。
うっとりとした焦がれるような笑みは、無防備なようでいて底が知れず―――― まるで白昼夢のような非現実さだけを、彼に与えた。

『気が向いたらまた会ってください』と言い残して、女は自分の連絡先を置いて行った。
騙されているとしか思えない怪しい話だが、その怪しさを押しても気になってしまうのは事実だ。
手の中で小さなカードを回していた彼は、そこに書かれている名前を読み上げる。
「ティナーシャ……」
変わった響きの名だ。偽名なのかもしれない。
頭の奥がずきずきと痛む。次第に強くなる気もする痛みに彼は顔を顰めた。
―――― 失われた記憶がさざめく。





彼からの連絡が来たのは、それから二週間後のことだ。
手短な、三行だけのメッセージ。そこに書かれている内容をティナーシャは読み上げる。
「少し待っていてくれ。可能な限り平定していく。愛している」
彼らしい、端的な言葉。
今いる立場をすぐに放棄は出来ないのだろう。そのようなところも彼らしくて、彼女は微笑んだ。
「少し待っていてくれ、ですか」
本当は、時間をかけてでも今の泥沼をなんとかしたいに違いない。
だが、それに彼女をつきあわせたり待たせたくはないと彼は思っている。そこまでを汲み取ると頷いた。
「なら、私も手伝いますか。―――― 最短で」
彼の傍についてその手伝いをすることも出来るが、それよりもっといい手段がある。
ティナーシャは少し考えると、悪戯を思いついたように指を鳴らす。
彼女が、彼の敵国の上層部にふらりと現れたのは、その翌日のことだ。

六国が関わる泥沼の戦争は、こうして二人の人外をそれぞれ中心に据えて動き出した。