真紅の炎

mudan tensai genkin desu -yuki

指先に灯る炎を憎悪と呼ぶなら、この愛はあなたへと捧げよう。

針、と彼女の作る魔法具を名付けたのは、高名な老魔法士だった。
正確には「悪意に満ちて眼球を抉り出す無痛の針のように」と言ったらしい。もしくは「脳髄に埋め込まれる焼けた毒針」だったか。
もっとも発言の真偽がどちらであるかは、ダニエ・カーラにとってどうでもいことだ。当の老魔法士は既に殺してしまった。本当のことを確かめることはもう出来ないし、そうしたいという気もない。
第一彼女は、「針」という呼称を気に入っているのだ。それは奴隷だった頃、主人が嬉々として彼女の体に何十本もの針を刺していった記憶を思い出させる。その針を、今度は彼女が刺し返しているのだ。

ダニエ・カーラは子供じみた夢想に微笑む。抱えて消えない苛立ちが幾分薄らいだ。

豪奢な寝台はひんやりと冷たい。深い眠りから目覚めた彼女は、微笑している自分に気づくと体の中に残る眠気を息と共に吐き出す。
そうしてダニエ・カーラは薄く砂埃の積もった敷布の上に体を起こした。
―――― かつてはこの敷布に、血を一滴こぼしただけで、ひどい折檻を加えられた。
あの頃の毎日は、彼女にとって暗闇の中を手探りで進まされているようなもので、けれど彼女はその理不尽さに慣れきっていた。物心ついた時から嵌められていた首輪を、そういうものとして捉えていたのだ。
今の自分が当時に戻れるなら、主人よりも先に自分を焼き殺すだろう。そう言える確信が彼女にはあった。

今はもう誰も住んでいない屋敷、朽ちて壊れかけた部屋を、ダニエ・カーラは見回す。
そこには一つの死体と、瀕死の女が転がっていた。右足の膝から先がない女は、芋虫のように床の上でうつぶせになっている。泥と血に汚れた指が掻いたのだろう。床の埃が五指ののたくった跡にぬぐわれていた。
寝台の鳴る音に気づいたのか、女は僅かに顔を上げて、ダニエ・カーラを見上げる。
「…………」
声は声にはならなかった。
そんな力も残っていないのだろう。ダニエ・カーラは女に嵌められた鉄の首輪を見やる。
「目が覚めた?」
女は答えない。彼女はゆるりと視線を巡らすと、隣に転がる主人の死体を見た。虚ろであった目が大きく見開かれる。
彼女はよろよろと床を這って手を伸ばすと、物言わぬ主人を揺さぶった。ダニエ・カーラは赤子の手つきに似たそれを眺める。

初めて「彼」を見た時、彼は左足に鉄輪をつけられたままだった。
主人の足元からそれを見て、ダニエ・カーラは、彼を自分の同類かと思っていたのだ。
だが二度目に彼を見た時、それは単なる思い込みであったと分かった。
彼は、首輪に繋がる鎖ではなく、彼女の手を取って引き立たせてくれた。そうして彼女を重い頸木から解放してくれたのだ。

―――― 今の自分もあの時の彼と同じことをしているのだろうか。
ダニエ・カーラはそんなことを考える。ようやく主人の死を理解したらしく呆然と座り込む女に、彼の言葉を思い出して声をかけた。
「あなたは自由になったの。どこに行ってもいいのよ」
熱のない投げ捨てるような口調に、女は顔を上げてダニエ・カーラを見る。
だがその目に浮かぶものは、寝床を失ったかのような困惑だけで、喜びも安堵も現れなかった。
ダニエ・カーラは分かっていた落胆を味わう。

やはり無理なのだ。奴隷は自由を喜べない。
自分もまたそうだったのだから。この女は自分と同じだ。何も分からず、何も選ばず、ただ座り込んでいた。
それでも彼に手を引かれて歩いていった彼女は、主人の代わりに「彼」を求めた。そうして結局は捨てられたのだ。
「自由なんて―― 」
溜息は、吐き出す前に喉の奥に溶けた。
ダニエ・カーラは埃まみれの床に立ち上がる。そのまま死体と女を無視して部屋を出て行こうとした彼女は、けれど「かつての自分を殺したがっていたこと」を思い出した。座り込んだままの女を振り返る。
躊躇いはない。その頭に向かって細い指を上げ、爪先に魔力を灯した。
一瞬で刈り取れるであろう卑小な動物を、ダニエ・カーラは眺める。脳裏に懐かしい男の声が甦った。
『ディニア、人はみな人だ。同じ人間など一人もいないのだ』
「……嘘つき」
人は皆、同じだ。
下を見ればいつでもそこには自分が蹲っている。
ダニエ・カーラは意志のない人形のように口を開けて自分を見つめる女を、蔑みの目で見た。指先に構成を広げる。

人間とは何か。
どうすれば自分は人になれたのか。



答などいつも不自由だ。
手を下ろし、砂埃を踏みしめ、ダニエ・カーラは踵を返した。
興味をなくしたように女に背を向け部屋を出て行く。からからと乾く喉は、酒でも水でも癒せそうにない。もっと甘い何かで静かに満たしたかった。
彼女は朽ちかけた屋敷を後にする。そうして錆びた門を出て、色褪せた壁を顧みた。
かつての寝床だった場所、狭い己の世界を見てダニエ・カーラは少し考える。
彼女はふっと微笑むと、白い指を軽く鳴らした。屋敷の壁に絡まる蔦が、一斉に燃え上がる。

自由は動物を救わない。真実も、知識も、意味がない。
ただこの指に灯る火が愛であるならば、全てを焼き尽くしてしまえばいい。

ダニエ・カーラは燃え落ちる屋敷を背に歩き出す。
ただ一人行く彼女は自由で、追って来るだろう男を待ち続けていた。