樹氷

mudan tensai genkin desu -yuki

「魔女を見たことがある」
そんな囁きが聞こえてきたのは、潮騒に似たざわめきの中からだ。
薄暗い酒場の片隅で杯を傾けていたオスカーは、向かいに座る妻に問う。
「お前か?」
「さぁ……?」
黒いヴェールを目深にかぶったティナーシャは、その装いもあって半ば夜の空気に溶け入っている。
闇色の瞳が店内の酔客たちを撫でていき、またゆらりとオスカーの上に戻った。
彼女は、年月を凝縮させ一滴と成したかのような美しい微笑を見せる。
「魔女が畏怖の対象であった時代はもう遠いんですよ。今は単なる御伽噺、話の種です」
「俺たちがそうであるようにな」
「ええ」
首肯して、ティナーシャは陶器の酒甕を手に取る。
小さな甕から自分の杯に注がれる酒を、オスカーは目を細めて陶然と眺めた。
かつてこうして城の一室で向かい合っていた、その時代の話は、今は人の口の端に時折のぼるだけの断片だ。
オスカーは聞こえて来る話に苦笑する。
「―――― 魔女が古城の中で眠っている話、か。眠っていたら魔女かどうか分からないだろうに」
「確かに。でも私、心当たりがあります」
「お前か」
「違います」
今まで幾度となく出鼻を挫かれてきたオスカーは、即妻に確認してみたが、彼女の返答は拍子抜けするものだ。
ティナーシャは白い指を小さく鳴らした。その指先から真っ白な雪の欠片が舞い上がる。
「古城で眠ってる魔女って、そんなの多分一人だけです」
「一人だけ?」
「ええ―――― 水の魔女、カサンドラですよ」
青き月の魔女は、透き通る微笑を見せる。
そうして彼女はまるで甘い物を選ぶかのように軽く「行ってみます?」と問うたのだった。



「カサンドラってちょっと捉えどころがないというか、変わってるんですよね。契約の概念があるのは、私と彼女だけって言いました?」
「聞いた気もするな」
いつ聞いたかはぱっと思い出せないが、確かにそのような話をした記憶がある。
しんしんと雪の積もる山道を、足跡をつけずに進んでいるオスカーは、顔を上げ白一色の景色を眺めた。
重みでしなる木々の間から、遠く地上の様子が窺える。いつの間にか大分上まで登ってきていたらしい。
彼の半歩前を行くティナーシャは、山道の先を指さした。
「もう少しで山頂ですよ。そこに城があります」
「魔女がいるという古城か」
「ええ。時々そこで寝てるんですよ、カサンドラ」
まるで野生動物の生態を語るような口ぶりだが、相手は紛れもなく魔女だ。
だからこそティナーシャも、直接転移ではなく歩いて城に近づくという手段を取っているのだろう。
魔法で自分たちの身体を雪上に浮かせている彼女は、小さな手で口元を覆うと白い息を吐いた。
「彼女って、構成がまったくの不可視ですから。迂闊に領域内へ踏みこむと面倒なことになります」
「転移封じでもされているのか」
「おそらくは。でも歩いて行けば多分、立ち入れるんですよ。そもそもこんなとこ歩いてくる物好きいないですし」
「確かに」
酒場で話していた例の男は、果たして何を思って雪深い古城に立ち入ったのだろう。
そもそも何年前の話かも確認しなかった。これは空振りになるか、とオスカーが考え始めた時、唐突に目の前の視界が開けた。
山頂にひっそりと佇む、薄白い古城。
遠く凍りついて見える正面の扉に、ティナーシャは微笑む。
「あれが、水の魔女の城です」

氷の城、と言いかえても問題なさそうな古城は、どうやら暗黒時代の初期に建てられたものらしい。
それが今なお無事であるのは城全体に劣化防止がかかっているからだという。
オスカーはよく滑る螺旋階段を、妻の手を引いて慎重に登っていく。
今のところ、進行を阻むような魔法には出くわしていない。そのことを口にすると、ティナーシャは苦笑した。
「来訪者を待っているからですよ。契約者になるかもしれない相手を」
「そういうことか。お前の塔の試練に相当するものが、あの雪道というわけか」
「城まで辿りつけても契約者になれるわけじゃないですけどね。カサンドラはそのあたり、気分屋ですから」
「気分屋なのはお前も相当だと思う」
階段の終わりに見えてきたものは、巨大な両開きの扉だ。
オスカーは妻を一瞥する。ティナーシャは小さく頷いた。それに応えて彼は扉に手をかける。
焼けつくような冷たさが一瞬指先を走り―――― だがそれは、すぐに吹き付ける風へと取って代わられた。
僅かに開いた隙間から、氷雪混じりの風が濁流となって押し寄せる。
ティナーシャが軽く手を払ってそれを防ぐと同時に、部屋の中の様子が見て取れた。
ただひたすらに眩しい、白の広間。
その中央の台座には、光に溶け入るようにして、一人の少女が眠っている。
白金の髪に、雪色の肌。精巧な陶器人形じみた美しい少女の名を、やって来た魔女は呼ぶ。
「おはようございます、カサンドラ」
その呼びかけに、魔女はゆっくりと目を開け――――



「なんだ、ティナーシャか」
「なんだってなんですか。数百年ぶりですよ」
「そうだった?」
目をこすりながら起きたカサンドラは、そこで初めてオスカーに気づくと、子供のように「こんにちは」と頭を下げた。






「なんというか……捉えどころがない人物だな」
「それ、私が言ったじゃないですか」
魔女同士の短い邂逅は、カサンドラが「眠い」と再び横になったところで打ち切りになった。
元来た雪道を帰る途中、オスカーがぽつりと感想を漏らすとティナーシャは笑う 。
「カサンドラは多分、誰かを待ってるんじゃないですかね。だから時々ああして眠るんです」
冷えた空気に混ざりこむ声は、澄んだ祈りに似て聞こえる。
語られないことの重みを、肌で察したオスカーは黙って頷いた。枝から落ちる雪が日の光の下で煌めく。
ティナーシャはそれらの飛沫を払いながら、夫の隣に並んだ。
「長く生きるってそういうことですから。それでも、きっと生きる理由があるからそうしてるんですよ」
「俺たちがそうであるように、だな」
「です」
幾度も繰り返されたやり取り。軽く笑いあって、二人は雪道を降りていく。
遠ざかる古城は雪の中にひっそりと眠ったまま、来ない誰かを待ち続けているようだった。