取り引き

mudan tensai genkin desu -yuki

客取りをしてからというものの、巫であるサァリが化生斬りの要請を受けることは、めっきり少なくなった。
それは単に、化生が実体を持つことがなくなったからであり―――― 彼女の連れ合いである男が、人でなくなった為でもある。
昔から勤勉な化生斬りであった彼は、神の力を持つようになって、更に問答無用の勢いで化生を始末し続けている。
制限つきのサァリの力など、もはや必要ないのだ。そのことを口には出さないが寂しく思っているサァリはある日、昼食を食べに帰って来たシシュを捕まえた。
「午後は私も見回りに行きます」
「何かあったのか?」
「何もないけど。なんとなく」
昔、と言うほどでもない時のことが懐かしいとは言えない。
懐かしいと思ったとしても、「それと同じことをしたい」と言ったら子供じみた行いに固執しているように思えたのだ。
だからサァリは「買い出しのついでに」と理由をつけて彼に同行を了承させた。久しぶりに共に外に出るということで、期待を膨らませつつ支度をする。
走ることも出来るよう、少しだけ裾を上げられた着物を見て、シシュは口元を押さえた。
「シシュ? どうかした?」
「いや、懐かしいと思って……」
「そう?」
自分でも思っていたが、彼の口から聞くと嬉しい。
サァリはシシュの腕を取ると、弾みそうになる足どりを抑えつつ、街中へと向かった。昼の大通りを歩き出す。

蛇がいなくなった後のアイリーデには、化生が人に混じるということはない。
ただそれでも、見える者には曖昧な影が映ることがある。
サァリとシシュの二人は、ほぼ同時に雑踏の中に佇む黒い娼妓に気づいた。髪を綺麗に結い上げた娼妓は、二人の視線を受けて深々と一礼する。
堂に入った娼妓の所作に、サァリは針を作ろうとしかけた青年を手で留めた。
「待って。こっちを呼んでる」
「化生だ」
「そうだけど、でも」
サァリの言う通り、娼妓は彼らを手招くと、近くの細い路地に入っていった。
意味ありげな態度に二人は一瞬顔を見合わせると、娼妓の後を追って路地に向かう。
見失ってしまうかと思ったが、ゆらぐ影のような娼妓は、入ってすぐの突き当たりに立っていた。顔のない影から囁きに似た響きが洩れる。
『しらつき様』
「……戻って来たのか」
サァリの呟きは、感心の色が濃いものだった。
己を「しらつき」と呼ぶ存在。失われて千々になった欲の欠片。それがまた、この街へと戻って来た。そこに彼女は苛立ちや恐れよりも、感嘆を覚える。



しかし、シシュの方は彼女と同じ感情は抱かなかったらしい。サァリを背に庇って一歩前へ出た。すぐにでも娼妓を縊り殺しそうな青年を、サァリはまた留める。
「待って待って。敵意ないぽいよ」
「だが蛇だ」
「でも人だよ」
―――― 全ての化生は、蛇であり人だ。人の欲する心。
それはアイリーデの一部でもあり、愛すべき人の性だ。存在からして否定する気はサァリにはない。
彼は連れ合いの右半身にしがみついて押さえながら、影に問うた。
「化生よ、何故、我らの前に現れた? 何を望む?」
『神の息を得たいのです。すぐに消え去るこの身を、最後に散らしてくださるものとして』
黒い手が、伸ばされる。
焦がれる想いが込められたその指先に、サァリは息を飲んで瞠目した。人の熱情が彼女の琴線に触れる。
恋を請う存在。黒い影で出来た女が、儚くも愛らしい娼妓そのものに見えた。



「分かった」
「サァリーディ!」
踏み出そうとするサァリを、青年の手が抑える。彼女を守る神供であるシシュは、厳しい目で制止した。
「駄目だ、危ない」
「危なくないよ。薄いもん。平気だもん」
「何があるか分からない」
「何もないし。それに、彼女は私に来た客でしょう?」
「巫の客は俺一人だ」
事実で、痛いところを突かれてサァリは唇を曲げた。
だがそれでも譲る気はないのだ。「客として来い」と、尽きぬ欲を散らしたのは自分自身であるのだから。

彼女は反論しようとして口を開きかけ―――― だがシシュに口元を押さえられる。神供の青年は影の女を振り返った。
「神の息というなら、俺でもいいのか?」
『ええ』
「駄目駄目絶対駄目。やめてね。血の雨降らすから」
「…………それは俺の血なのか」
「言葉の綾です」
たとえ化生が相手であっても、彼を別の娼妓に渡してしまうことなど我慢ならない。彼は彼女の半身で、他の誰のものでもない。
サァリは強引にシシュを押しのけると、透けて見える影へと向かった。冷えた手を彼女へと上げる。
「それでお前は代わりに何を払う?」
『あなた様のこの街に、更なる客をお呼びしましょう』
「悪くない」

距離を詰める。
手を伸ばし、目を閉じる。
触れたと思った指先は、ほんのりとした温かさを感じただけだ。
サァリは軽く背伸びすると、影で出来た娼妓に顔を寄せた。その口元に口付けて―――― そっと氷の息を吹き込む。
声はない。
ただ歓びの気配だけが伝わって来た。
それをサァリは「いじらしい」と思った。



煙のように掻き散らされた影は、見る間に地に溶けて見えなくなった。
そうしてまたいずれ、人の欲として何処かで何か別のものになるのかもしれない。サァリはその情動を愛おしく思って微笑む。
振り返ると、青年がこれ以上ない険しい顔で立っていた。
「サァリーディ……」
「……平気だもん」
「平気だとしても、危ない。それに見ていてあまりいい気はしない」
「ごめんなさい」
「とりあえず送っていくから月白に帰ろう」
「え!? まだ出てきたばっかりなのに!」
「帰ろう。少し話がある」
「…………」
これは、ひょっとして説教が来てしまうのだろうか。
何がそこまで悪かったのか、分かるような分からないような気分で青年に連行されていくサァリは、誰もいない路地裏を最後に首だけで振り返る。
神に捧げられて栄える街、乾いた土の上には、一滴だけ涙の痕のように濡れた染みが残っていた。