寵愛

mudan tensai genkin desu -yuki

目が覚めて、隣を見る。
そこに己の半身を見出すことの出来る幸福は、いつもながらに格別だ。

月が姿を消し、朝日にその場を譲る時間。
享楽の街に訪れる朝は、未だその腕に深い微睡を抱いたままだ。
妓館の主であるサァリは、空気の動く気配にふっと目を覚ます。だが起き上がろうとした時、大きな手が彼女の瞼をそっと押さえた。
「寝てていい」
「シシュ、でも」
「今日は早くから商談があるだろう。少しでも寝ておいた方がいい」
そんな風に、彼女を気遣う夫の言葉は淡々と聞こえるが、ひどく優しい。
サァリは朝の空気を幸福と共に吸いこむと、頷いた。
「分かった。ごめんなさい」
「謝ることじゃない。行ってくる」
夫の手が離れ、代わりに口付けが瞼に触れる。
かつては不愛想無骨不器用が当然であった彼のそのような変化に、サァリは無性に嬉しくなった。手を伸ばして彼に抱き付く。
その体は彼女にとっては紛れもなく温かいものだった。

月白の主が選ぶ客は、生涯ただ一人。
そんな話を知っている人間は、ほとんどが街の人間だ。彼らはもっとも古い妓館の主に選ばれた客を「夫」と看做す。
そして、街自体の賓客として値踏みし敬うのだ。
もっとも以前から変わり物の堅物として有名だった彼女の夫は、微笑ましく見守られている、と言った方が近いだろう。
商談が終わり、仲介として入っていた老人と雑談していたサァリは、夫の話題を振られて微笑む。
「主嬢もなかなかよい客を選んだようだ。融通は利かないが誠実だ。この街には珍しいことだが」
「それがあの方なのです。変わらぬままこの街に馴染んだようで」
愛情を隠しきれず、サァリは相好を崩す。

―――― 初めて会った時から、この街には異質な人間だと思った。
話すようになってから、尚更そう思ったのだ。彼は、夜の街には不釣り合いな、日の当たる世界で育ってきた人間なのだと。
だから、惹かれた。

サァリにとって幸福だったのは、彼がまったく正反対の彼女の在り方を否定しない人間だったということだろう。
そうでなければいくら彼女が惹かれても、二人が共に生きることは出来なかったはずだ。

「わたくしには勿体ないほどに、よくして頂いております」
てらいなくサァリがそう言うと、老人はあてられたように苦笑する。
「大事にされなさい。あなたはその為の花だ」
「心得ておきます」
言わずとも、彼はサァリを大事にしてくれている。その確信を味わう彼女はそして、夕暮れ過ぎ、帰ってきた夫を迎えた。
手ずから夕膳を運びつつ笑う。
「シシュは真面目だから、街でも評判いいよね」
「そうなのか?」
「うん」
彼は、この街にとって特異な人物だ。
だがサァリがそこに惹かれたように、他の人間も彼のそんなところを温かく見守るようになっている。
よく分かっていないのは本人だけで、ただ彼は自分のことを「ちゃんとアイリーデに馴染んできた」としか思っていない。
そのような食い違いもおかしくて、サァリは彼の隣に座ると弾みながら寄り添った。
「シシュ、今日ね、シシュのこと褒められたよ。よいお客さんだって」
「そうなのか……? 俺として、あまり客という感じはしないんだが」
「いいの! みんながそう思ってくれてるんだから!」

かつては、石室に一人いる夢をよく見た。
その度に、自分は人ではないのだと、このまま異質を抱えて生き続けるのだと思っていた。
だが今は彼がいる。人であってもそうでなくとも変わらない誠実さが、サァリの一生の支えとなるのだ。

「私ね、シシュと一緒でよかった」
「どうしたんだ、急に……」
「だって安心するもん。朝起きて隣にシシュがいる時とか」
正直な気持ちを口にすると、何故か青年は複雑そうな顔で黙りこむ。
箸を持ったまま固まってしまった夫に、サァリは首を傾げながらすり寄った。
「シシュ?」
「いや。巫が幸せならそれでいいんだ……」
「幸せだよ」
だから全ての愛情を捧ぐ。それが生涯一人しか客を取らないということだ。
サァリは一歩下がると座敷に手をついてお辞儀をする。
「ありがとう、シシュ」
一生の愛情に、己の一生で返す彼は、やはり最上の客だと思う。
だからサァリは、彼に愛された幸運を忘れず、それにふさわしい娼妓であり続ける。
優美な仕草で顔を上げた彼女に、シシュは驚いた顔で、だが微笑んだ。
「礼を言われるようなことじゃない。こちらこそ感謝している」
彼らしい不器用な言葉に、サァリは破願する。人目のあるところでは凛とした佇まいの主は、ただの少女のように彼に抱き付いた。
「シシュ、じゃあ今日は早く寝よ。明日は私も一緒に起きるから」
「まだ夕飯時なんだが……」
「食べたらお風呂入ろ。仕事終わらせて来るから」
若い神からの寵愛に、シシュは溜息をつきたそうな顔で頷く。
冷たい石室の夢はもう見ない。
その幸福を喜ぶ少女は、一生を共にする夫に寄り添って目を閉じた。