七色の世界

mudan tensai genkin desu -yuki

ミーディアにとって世界とは、言葉と力によって表現されるものだ。

風が吹く。正面から彼女の顔に吹きつけてきたそれには、青草の匂いが混ざっていた。
覚えのある気配にミーディアが苦笑すると同時に、幼馴染の声が彼女の名を呼ぶ。
「ミーディア、やっと帰って来た!」
「ただいま」
滑らかな手が、一拍置いてミーディアの頬に触れる。温かな女の手は、彼女に改めて帰郷の実感をもたらした。
昨年結婚した幼馴染の手を握り返し、ミーディアはもう一度囁く。
「ただいま、カルラ」
女の笑う声が、彼女の耳をくすぐった。

ふわりと漂う青草の匂いは、ミーディアにとって故郷を表す一つだ。
本当は彼女の生まれた場所はこの町ではないそうなのだが、記憶を遡る限りミーディアはこの町で育った。
小さな家と緩やかな坂になっている緑の丘。幼い頃感じた父の手の温かさと母の呼ぶ声の響きは今も鮮やかに思い出せる。
ミーディアは風になびく長い髪をかき上げた。家へ帰る坂道を行く彼女の隣に、カルラが並ぶ。
「今度はどこに行ってたの?」
「南の方に。初めて海船に乗ったわ」
「凄い。どんな感じだった?」
「思ったより揺れて……水の中にいるよりも水を感じたわ。あとは潮の匂いが強くて、日差しもきつかった」
「へええ。面白そう」

この町を出ることもないカルラは、大陸のあちこちを旅するミーディアの話が興味深くて仕方ないらしい。帰って来る度に話をねだっては、感心の声を上げている。逆にミーディアは、自分がいない間の町の話を彼女から聞けることが嬉しかった。何か変わったことがなかったか、と聞くと、カルラは「うーん」と芳しくない声を上げる。
「何かあったの?」
「何かって程でもないんだけど。ロコールさんところに最近変な男たちが押しかけててさ。家屋敷を売れってうるさいらしいんだよね」
「ええ?」
ロコールはこの町の中央近くに大きな屋敷を構える老人で、二人が子供だった頃、他国から平穏な余生を求めて越してきた人間だ。元々貴族だったという噂もあるくらい裕福な彼だが、人柄もよく子供たちに優しく、いつ遊びに行っても屋敷や庭に彼女たちを招き入れてくれた。
だからこそ、カルラも彼の苦境が気になるのだろう。話を聞いたミーディアは眉を寄せる。
「どんな男たちなの?」
「ロコールさんの親族が連れてきてるみたい」
「今もいる?」
「この時間ならいるかも」
それならば話は早い。ミーディアは家に向かっていた歩みを、ロコールの屋敷の方に向ける。
そうして久しぶりに子供の頃の思い出が詰まった場所を訪ねようとする彼女に、カルラが慌ててついてきた。幼馴染は声を潜めて問う。
「ミーディア、どうするの?」
「んー、出来るなら追い払おうかな」
穏かに微笑む彼女に、カルラは安堵混じりの苦笑を見せた。
心配など不要だと思っているのだろう。この盲目の女は、諸国でも屈指の力を持つ魔法士であるのだから。

ミーディアの目は、生まれつき見えない。
正確にはそれは、出産時の事故により見えなくなったのだそうだが、彼女は自分のことで両親を恨む気持ちはなかった。むしろそれ以上のものを、同じ魔法士である二人からは受け取ってきたのだ。
たとえば、この町を不自由なく一人で歩けるようにしてくれたのは、彼女の父親だ。
ミーディアは自分がただ一つ持つ「視界」の中に、光る楔がいくつも打ち込まれているのを感じる。それは魔法士ならば視ることが出来る魔力の楔で、ミーディアが家を出られる年になった頃、父が街中に置いた印だった。子供だった彼女は暗闇の中感じ取れるこの楔を頼りとして町を行き来し、他の大人たちを驚かせたものだ。
今ではもう彼女は、自分の魔法を使って初めての場所でも大体を把握することが出来る。
だが彼女にとって未だ世界とは、父の置いた楔が無限に広がっている印象のままだった。

ロコールの屋敷はそう遠くない。近づくにつれ粗野な怒鳴り声が聞こえてきた。
ミーディアは閉ざされた瞼の上で眉を上げる。
「想像以上」
「でしょ?」
汚い言葉で金をせびり屋敷の明け渡しを要求しているのは、三十代から四十代の男数人に聞こえる。
ミーディアは彼らが武器を携えていることを確認すると、カルラに守護結界を張った。その上で自分は無造作に男たちの前へと割り込んでいく。閉ざされたままの玄関の扉を、ミーディアは軽く叩いた。
「ロコールさん、ミーディアです」
突然割って入ってきた盲目の女に、男たちはぎょっとしたようだった。だが彼らが黙り込んだままなのは、これでロコールが扉を開けたら儲けものだと考えているからだろう。
ややあって扉が内側から開かれる。記憶の中よりも老いた声が彼女の名を呼んだ。
「……ミーディア?」
「お久しぶりです」
彼女が伸ばした手を、ロコールはそっと取って自分の頬にあてた。少しひんやりとして皺の感じられる男の顔は、けれど穏かな微笑を浮かべているのだと分かる。ミーディアが懐かしさを言葉にしようとした時、だが後ろから男が肩を乱暴に掴んできた。
「ちょっと代わってもらえるか?」
「ジナル、お前……」
「すみませんが、代われません」
振り返ったミーディアは、男の手を逆に掴んで肩から外した。
ただの無力な娘にしか見えない彼女に、嘲笑の気配がまとわりつく。

盲目の娘にかつて父が贈ったものは、言葉と力だった。
街角の配された楔と同様、彼女に世界を認識させる為にあちこちに置かれた魔力の印は、母の手も入ることによって、ただひたすらに美しい無限の中にミーディアを誘った。彼女はずっとその中で育ってきたのだ。
そうして成長していく彼女に父がくれたもう一つは、溢れる程の言葉である。在るものを、在らぬものを表す言葉の数々。時に魔力を越えて何処までも延びて行くそれらは、ミーディアに世界と、人間を知らしめた。

彼女はにっこりと笑ってみせる。
「少しお聞きした限りでは、あなた方はどう考えても不当な要求をしているようですが。このままお引き取りくださるのが、お互いの為でしょう」
「なんだと? 何を」
「たとえば―――― 『渡り鳥が海を越えるように』」
一言だけの詠唱は、男の手から力を失わせた。ぐんにゃりと垂れ下がろうとする腕からミーディアは手を離す。
他の男たちの呆気に取られる気配が伝わってきた。しかしジナルと呼ばれた男は、それにも構わずふらふらとその場から遠ざかっていく。ミーディアは軽く肩を竦めて見せた。
「あなた方も、ここにいない方がいいですよ」
「お前、なんだ……。何をした」
「なんでしょう」
しらばっくれていると、気勢を削がれた男たちは彼女の不気味さに耐えられなくなったらしい。そそくさと屋敷の前から去っていく。
その背に向かって、ミーディアは何度か軽く指を弾いた。あとは彼らに小さくつけた魔力の印を判別して、この屋敷に近づけないよう結界を張ってしまえば済む。今まで他国で請負ってきた仕事に比べれば他愛もない終わりに、彼女は微笑んだ。
何も言わずとも長い付き合いで彼女が手出ししたことを理解したのだろう。ロコールが深い息をつく。
「面倒をかけてしまったね」
「これくらい全然。それより父には黙っててください」
ミーディアが魔法士として旅をしていることもよく思っていない父は、このように自分から揉め事に首を突っ込んだと知ったら、まず注意から始めるだろう。それが嫌なわけではないが、言われなくとも分かる、と思っていることは事実だ。過保護な彼が思うよりずっと、ミーディアは世界と人間を知っている。父が知る為の切っ掛けをくれたのだ。それらはいいも悪いも多くを孕み、伝え得ること以上に美しいと。

ミーディアは、二人に笑って会釈した。
「また明日改めてお茶でも。今日は家に帰らないと」
「あ、じゃあ明日ジャム持って来るよ」
「私はお茶を用意しよう。待っているよ、ミーディア」
「ありがとう」
危なげのない足取りで踵を返し、ミーディアは家への坂道を登り始める。
点々と続く楔は昔と少しも変わらず輝いて、彼女の世界のはじまりを彩っていた。