最も天に近い場所

mudan tensai genkin desu -yuki

 月光の下に光る小さな湖は、まるで空を映す鏡のようだ。
 覗けばそこに遠い故郷が見える気がして、腰までを水に浸した彼女は水面を見つめる。
 ―――― 待っていたのはそう長い時間ではない。
 ただ言葉だけが、遥か果てに浮遊する都市から届いた。彼女はそれを懐かしい声として変換する。
『本当に、帰ってこない気かい?』
「ええ。私はここに残ります」
 或いは、最初からそのつもりがあったのかもしれない。
 十二人いる同胞たちは、自らの足でこの世界を訪れようとはしなかった。ただ彼女だけがそれを選んだのだ。これから長く続くであろう記録と実験の基盤を、一人作る為に。
 彼女は湖に浸かるほどの長い髪をたぐる。濃い茶色のそれは水を含んで、じっとりと重くなっていた。
 だが、そのような人間に似た感覚も、今の彼女にとっては愛おしい。彼女は己の声を聞いているであろう同胞に返す。
「あなたたちも、来て、触れてみればいいのです。道具越しにではなく、この世界に直接」
『危険だと、皆は思っているよ。その世界は《神》のいる世界だからね』
「そうやって怖じ気づいて、何がわかるというのです」
 たった数年で、彼女は多くのことがわかったのだ。彼らが知りたいと望んでいることも、それ以外のことも。
 だがそれを口にしようとする彼女に先んじて、男の声は苦笑の気配を伝えた。
『君の意見は受け入れられないだろう』
「何故です?」
『帰ってこないという傾倒がまず危険視されるからだ。偏った意見は検討されない。そうでないというのなら、帰ってくるべきだ』
 穏やかな声音ではあるが、内容は受け入れがたいものだ。彼女は美しい眉を寄せる。
「あなたがそれ程までに頭が固いとは、知りませんでした」
『言ってみただけだ。僕にも立場がある。帰ってきたくないなら好きにすればいい』
「え?」
 思わず拍子抜けして聞き返す。だがすぐに彼女は、相手の男が同胞の中でも変わり種であったことを思い出した。
 他の仲間たちが如実に実験や記録を主とした道具をこの世界に送り込んだのに対し、彼はある母子の為に「時間を巻き戻す」という道具を送ったのだ。この世界内を対象に、発動時点の全事象の解体と記憶による再構成を可能にする道具は、多分に故郷である都市が蓄積している情報と、この世界自体の力に頼っているのだろうが、それでも彼女にはどうやればそんなことが出来るのか分からないほどの高度な技術だった。その力と能力に、薄気味悪ささえ感じる。
 ―――― だが彼女は、ある種の力であれば決して自分も彼には劣らないと思っていた。
 力の灯る指を、彼女は湖面に浸す。
「本当に、帰らなくともいいと?」
『他の者は異を唱えるだろうけどね。そこまで行って君を連れ戻すことはしないだろう』
「ならば、道具を退かせることは?」
『それはできない。僕たちには知識が必要だ』
「……いつから私たちには、傲慢であることが許されたのです」
 この世界は、彼女たちにとっては異境だ。本来ならば無遠慮に触れていい物ではなかった。
 だが、もっとも「失われた過去」に近しいが故に触れることになったのだ。彼女はその決定を、けれど今は後悔していた。

 触れて、望むままに観察すれば、その瞬間から世界は変質する。
 知りたかったことは失われてしまうのだ。その傲慢を同胞たる彼らは理解しているのだろうか。
 そして《神》のいるこの世界が、決していつまでも干渉に黙っているような性質ではないことを。

 何と言えば伝わるだろう。
 そう考えて、だが彼女は「伝わるはずがない」と断じた。
 或いは今話している彼だけは分かっているのかもしれない。だが彼にも立場がある。同胞たちの反対を押し切ってまで、彼女の意見を受け入れることはしないだろう。
 だから彼女は、別れの言葉だけを口にする。
「さようなら、エイリアド」
『さよなら、ディアルリァ』
 もう二度と、会うことはないだろう。
 ―――― まみえるとしたら、それは自分ではない誰かだ。

 溜息をつく彼女に、湖の畔から男の声がかけられる。
「ディアドラ? まだ水を浴びているのか?」
 心配してやってきてくれたのであろう連れ合いを彼女は振り返る。
 軽装ではあるが戦うことを意識した鎖鎧姿の男は、出会った時とは違って今は一団の主だ。
 強い力と、心を持ち合わせた男。それがゆえにこの荒れた世で人々に希望と可能性を抱かせる連れ合いへ、彼女は以前から考えていたことを口にした。
「贈りたいものが、あります」
「なんだ急に。また何か思いついたのか」
「そのようなものです」
 彼女としては、いつもいつもよく考えて最善と思われる意見を述べているのだが、男からするとそれらは急で突飛な思いつきになるらしい。遠い世界外の都市からやって来た彼女は、ささやかな食い違いを無視すると白い手を湖面に浸した。そこから水の中へと、自分の力を溶かし込んでいく。
「まずは、朽ちない剣をあなたに」

 同胞である男のような道具は作れない。
 だが、それを壊す為の武器ならば、作れる。
 あらゆる法則を拒絶する、束縛を打ち砕く力。
 それが、十三人いる同胞のうち、もっとも最後に生み出された彼女の特性だ。

 ディアドラは、湖の中から両刃の剣を引き抜く。
 鏡の如き剣身に、男は軽く目を瞠った。月光を受けて剣は青白く輝く。
 彼女はそれを、男へと掲げて見せた。
「どうぞ。あなたの剣です」

 ―――― その剣がアカーシアと呼ばれるようになったのは、彼ら二人が国を造り、ディアドラが初代ファルサス王妃となった後のことだ。





 うたた寝をしていた間に、何だかおかしな夢を見ていた気がする。
 執務室での休憩時間、行儀も悪く机の上に足を上げていたオスカーは、目を覚ますと天井の模様をじっと見つめた。部屋の中に感じ取れる気配に向かって問う。
「ティナーシャ」
「なんですか」
「ファルサスの初代王妃の名前を知ってるか?」
「は?」
 怪訝そうな声に続いて、魔女の姿が視界に現れる。
 宙に浮いて彼を真上から覗きこむ女は、美しい顔に呆れた表情を乗せていた。魔法着の下の足が組まれる。
「知りませんよ、そんなの。というか、貴方が知ってるべきじゃないですか?」
「記録には残ってないんだ。お前は聞いたことないのか?」
「私、いくらなんでも生まれてませんからね……。ルクレツィアかトラヴィスなら知ってるかもしれませんが」
 あまり関わり合いになりたくない二人の名を挙げられ、オスカーは即座に諦めることにした。夢の残滓をかぶりを振って落とす。
 ティナーシャはそのような様子を不審に思ったのか、降りてくると執務机の隅に座った。
「そんなところで寝るから具合が悪くなるんですよ。ちゃんと寝室で寝なさい」
「別に具合が悪いわけじゃないんだが……。時々おかしな夢を見ることがないか?」
「おかしな夢?」
「違う記憶……というような。自分のだったり他人のだったりするんだが……いや、上手く言えないな」
 子供の時から稀に引っかかるそれらの夢について、何故彼女に言おうと思ったのか分からない。
 だが彼女にこそ言うべきだと、彼の勘が囁いた。
 意識すれば消えてしまいそうなかぼそい勘を、オスカーは手繰ろうとして、けれどすぐに諦める。魔女が怪訝そうにかぶりを振ったからだ。
「何ですか、それ」
「やっぱり気のせいか」
「気のせいというか、私長く生きてるんで、おかしな夢いっぱい見てますからね。心当たりがありすぎて分かりません」
「そう来るとは思わなかった」
「これくらい予想なさい」
 基本的につれない女は、そう言うと空中に戻った。
 どうにも子供の時に助けてくれた彼女は、穏やかで優しいという印象があったのだが、彼が求婚してからというものの基本的にそっけない。もしくは厳しいかのどちらかで、中々距離を詰めるにも時間がかかりそうだ。
 オスカーは日課として一応声をかけてみる。
「ティナーシャ、俺と結婚しないか?」
「しない」
「結婚してくれないと俺が困るんだが」
「勝手に困ってなさい。というか何が困るんですか」
「呪いがあるだろ。呪いが。誰が他に俺の子を産むんだ」
「だから解呪作業してるって…………あれ?」
 二人は顔を見合わせる。
 その上には揃って「不可解」と書いてあった。
 彼らはまじまじとお互いの顔を見つめて、同じ気味の悪さに首を捻る。ティナーシャが白い指で顔を押さえた。
「あれ……なんでしょう、今の」
「何だろうな……」
「呪いってなんですか。どっから出てきたんですか」
「お前も普通に答えてただろう。どうしたんだ」
「私が聞きたいですよ! 何かもう気味が悪いから適当な呪いかけますよ!」
「それはやめろ」
 魔女の呪いなどかけられたら始末に困る。
 これ以上おかしな話をして彼女に暴れられないよう、オスカーは背もたれから体を起こして―――― だがどうしても最後に一つだけ、聞きたくなった。ずっと子供の頃には頻繁に見ていた夢のことを、彼は口にする。
「ティナーシャ、体中に何かの破片が刺さる夢を見たことがないか?」

 砕け散った。
 いや、砕いたのだ。砕いて、その破片が降り注いだ。
 全身に。
 ―――― そして、魂の芯にまで。

 ただの夢だ。
 そう断じながらもオスカーはだが、いつからか自分が決定的に変わってしまっているような気がしてならなかった。
 笑い飛ばされるだろうと予想して、彼は魔女を見る。
 けれど闇色の目は、まじまじと信じられないものを見るようにして彼の顔を注視していた。
 小さな唇がかすかに震えて、オスカーは思わず腰を浮かす。
「ティナーシャ、どうした」
「え? あれ……」
 彼女ははっと自分の両手を見た。先程のオスカーと同様に首を横に振る。
 そうして数秒の後、再び彼を見たティナーシャは、いつもと変わらぬ様子で細い腕を組んだ。
「ちゃんと仕事してちゃんと休まないから、おかしな夢を見るんです」
「そうなのか?」
「そうです。分かったら仕事なさい」
 ティナーシャはそう言うと、彼の予想に反してすぐ目の前に降りてきた。椅子に座り直す彼の膝に乗ると、両手で彼の左手を取る。
 そのまま指を絡めてきつく握ってくる女を、オスカーは驚きの目で見やった。
「なんだ。どうしたんだ」
「……何となく」
「結婚する気になったか?」
「いえ全然」

 何だか落ち着かない。
 それは彼女も同じなのだろう。しきりに首を傾げながら彼の手を握ってくる。
 一体なんだというのか。夢見が悪かったと言えばそれまでだが、無闇に引きずって彼女まで不安にさせることもない。
 オスカーは息を吐いて細い体を抱き寄せると、ただ目を閉じた。腕の中の女に囁く。
「大丈夫だ」

 もう、時が繰り返されることはない。
 たとえ今は、思い出すことができなくとも。

 繋いだ手に力を込める。
 ティナーシャは男の体に背を預け、小さく頷いた。





 夢を見る。
 《以前》は見なかった夢だ。
 かつては繰り返しの度に、全ての記憶は完全に新しくなっていた。何もかもが解体され、初めから作り直されていた。
 だが今は覚えている。思い出せる。時読の当主たちがそうであったように。
 ぶつかり合う二つの呪具の力を、飲み込んで変質してしまったからだとは分かっていた。

 だから自分たちはこれから、永劫を渡っていくのだろう。
 ディアドラが予感したように、干渉を受けた世界が望むように。
 時の代わりに、生と死を無数に重ねて戦い続ける。人を、そして運命を逸脱し、力を振るう。
 全ての呪具を排する、その日まで。





「ラジュ、愛してますよ。結婚してください」
「しない」
 きっぱりとした少年の返事に、長い黒髪の女はころころと笑った。まったく構わずに彼の背に抱きつく。
 鄙びた山村で暮らす彼の前に、ある日突然現れて求婚してきた彼女は、ひどくとらえどころのない性格をしているのだ。今も軽い体をもたれかからせて嬉しそうにはしゃいでいる。
 子供のような、けれどそれよりも忌まわしい女を、ラジュは溜息を一つついて引きはがした。振り返って闇色の目を睨む。
「とりあえず、あんまりべたべたくっついてこないで」
「嫌です」
「少しは考えろよ……」
「考えるまでもなく嫌です」
 即答に、ぺしりと小さな頭をはたきたくなる。
 だが少年はそれを我慢すると、さっさと家の中へと入った。先程から村の往来で彼女とやり合っているため、欲しくもない注目を浴びてしまっているのだ。
 当然のようについてきた彼女は扉を閉めると、ラジュに向かって微笑みかける。
「ラジュ、今日の夕飯の希望はありますか?」
「特になんでも。というか、当然のように聞くな。用が済んだら帰って」
「じゃあ、結婚してくれたら帰ります」
「それ、おかしくないか?」
 普通、結婚したならそこから共に暮らすのではないか。
 ラジュはそう思ったが、迂闊なことを口にしては事態が悪化しそうだ。今現在でさえ、彼女は毎日のように押しかけてきては、彼にべたべたとまとわりついている。異様に美しい容姿と底知れない腕を持つ魔法士だけに非常に怪しい。頷きたくない。
 ラジュは女の名前を呼んだ。
「ティナ」
「何ですか?」
「本当のことを言え」
「ええ?」
 心外だ、と言わんばかりに彼女は眉を寄せる。闇色の目が猫のようにまたたいた。

 王と魔女の話は、もはや遠いお伽噺だ。
 だが彼らは今なお歩いていく。終わりへと永遠に旅していく。

 真実を求められたティナーシャは、姿勢を正すと微笑った。
 白い手を、ただ一人の男へと差し伸べる。
「全て差し上げます、私の王よ。私は貴方の魔女。貴方の力。永遠の忠誠と愛情を、貴方に捧げましょう」
 それが、ただ一つの真実だ。
 軽く膝を折って頭を垂れる彼女に、少年は魅入られたかのように動かないままだ。日が沈んだばかりの空と同じ色の瞳を、ティナーシャは焦がれる想いで見上げる。
 彼女が何か言うより先に、ラジュは我に返ったらしく首を横に振った。
「……よく分かんない冗談禁止」
「本当のことなのですが」
「冗談すぎる。大体魔女って何だ。いつの時代の話だ」
「九十年前くらいですかね。魔女の時代が終わったの」
 確か彼と式を挙げたのがそれくらい前のことだ。あの時は望まれて望まれて結婚したにもかかわらず、今はその逆である。人間から逸脱してしまったティナーシャは、しかしそれでもなお人間のままならなさに悩んだ。
「どうすればいいんですかね。国とか要ります? 獲れますけど」
「要らない。獲ってどうするんだそれ」
「大丈夫です。貴方、国を治める能力ありますから」
 自分としては当然のことを口にしたティナーシャは、しかし少年のじと目に気づいて内心ひるんだ。言い訳を探したが何も思いつかない。彼女は思案顔のまま若干肩を落とす。
「何か、後で盛大な反省会をさせられそうな気がします……」
「反省会ってなんの」
「貴方のことが好きなだけなのに、どうしてこうなってしまっているのか」
「怪しいからだ」
「私の何が駄目なんです?」
「怪しいとこ」
 ―――― とりつくしまもない。
 もともと彼は、尊大な自信家と勤勉な努力家の二面性を持ってはいたが、新たな環境で生まれ育った今はどちらかというと後者の方が強く出ているようだ。
 ならばどうすればいいのか。ティナーシャは悩んで悩んで、顔を上げた。
「あの、本当に、貴方のことが好きなんですよ」
「怪しい」
「…………」
 押し倒してやろうかと、ちょっと思った。





 妻である魔女相手に盛大な反省会をやった記憶はある。
 だが、いざ立場が逆転すると難しいことは難しいのだ。何も知らない相手に、自分を選んでもらうということは。
 それでも酷い攻勢しか出来ない彼女よりは、自分の方がずっとましであるという自信が、オスカーにはある。こういうものは慣れるような問題ではないのだろうが、基本的には少しずつ慎重に時を重ねていくしかないだろう。

 彼は、隣で机にかじりついている少女を見やる。
 強大な魔力を持っていたため、長らく幽閉生活を送っていた彼女は、男の視線に気づくと顔を上げた。
「オスカー? どこかまちがってる?」
「いや、あってる」
 オスカーはそう言って、字の練習をしている少女の頭をそっと撫でる。
 長い黒髪も闇色の瞳も、魔女である本来の彼女と同じ造作だが、記憶がないだけでまるで別人のようだ。今の彼女は、どちらかというと彼女が産んだ娘の幼い頃を思わせて、彼は懐かしい気分に捕らわれることも少なくなかった。
 十六歳である少女は、ほんの幼児と変わらぬように、一つずつ外の世界のことを学んでいる。
 彼女は書き写していた本の終わりに、満足げな溜息をついた。
「次の本、えらんでいい?」
「ああ。どこかの町に買いに行くか」
 人の立ち入らぬ森の中に建てられたこの屋敷には、本は多く所蔵されているが、どれも子供の手習いに使うには難しいものだ。特にティナーシャの本はほとんどが魔法絡みのもので、今の彼女の役には立たない。オスカーは何か童話でも買ってやろうかと考える。
 席を立つ彼に、少女は自分ももたもたと立ち上がった。無垢な眼差しがオスカーを射貫く。
「料理の本がいい」
「……まさか作るのか?」
「だめ?」
「…………」
 今の彼女に破壊された調理器具は既に二十にのぼっている。
 魔力制御が完全ではない少女は、無意識のうちに鍋を爆発させてしまうようなのだ。
 いずれ何とかしなければ、とオスカーも思ってはいるが、鍋を買い足すことと制御訓練を徹底させる以外の対策が思い浮かばない。
 彼はどう言いくるめようか考え―――― だがすぐに思い直した。少女の頭を撫でる。
「分かった。料理の本を選ぼう」
「いいの?」
「勿論」
 ―――― どのようなものでも、出来るだけ好きにやらせてやりたい。
 元々彼女は、普通の子供時代を知らずに育った人間だったのだ。
 強すぎる魔力が、彼女に無為な時間を許さないのだろう。だが、幾つもの人生を重ねる存在となった今なら、彼女を穏やかに成長させてやることも出来るかもしれない。
 オスカーは、彼の少女へと手を差し伸べた。
「おいで」
「うん」
 まだ彼女と最初に出会ってから三百年だ。
 道行きは、もっとずっと先にまで続いていくのだろう。だから焦る必要もない。
 永遠に等しい時であっても、隣には彼女がいるのだから。

「リースヒェン、鍋も買うからな」
「うん。どうして?」
「壊れる予定があるからだ」

 それにしても、どうして元の彼女の原型がなくなるほど料理が下手になってしまったのか。
 後でまた反省会をしようと、オスカーは思った。





「―――― いつの夢を見ていました?」
 聞き慣れた声で目を覚ます。
 オスカーは、自分を覗きこんでくる女の顔を見返した。手を上げて、白い顔に触れる。
 滑らかな感触は、彼が記憶しているそのままだ。オスカーはそのことに半分安堵し、半分ほろ苦さを抱いた。寝台に座る魔女の頬を撫でる。
「色々だ。懐かしいな」
「貴方、物覚えいいですからね。私は結構忘れてしまいましたけど」
「必要な時に思い出せばいい。ずっと負っているのは疲れるだろう」
 そうやって精神を休ませなければ、時に進むことさえ苦痛になるのだ。
 とは言え、彼にとって妻との記憶はどれも、忘れがたい貴重なものだ。オスカーは寝台の上に起き上がると、懐かしい屋敷の景色を見回す。
 広い部屋は調度品一つ一つが丁寧に手入れされていて、住む人間のこだわりを感じさせる。そのほとんどがティナーシャの手によるもので、彼女はこの部屋の模様替えをすることが好きだった。人外となった彼らは、城を出てからもっとも多くの時間をこの屋敷で過ごしていたのだ。
 彼は手繰り寄せた思い出に微苦笑すると、傍にいる妻を膝の上に引き取る。終わりを目前にしているであろう現在から、はじまりの時のことを振り返った。
「……ディアドラは、こうなることまで予想していたんだろうか」

 外から来た女。そして初代ファルサス王妃であった者。アカーシアを創った人外。
 自分たちの闘争の原点とも言えるその名に、ティナーシャはふっと微笑った。
「どうでしょう。私たちみたいな存在が生まれることは予想していたのかもしれませんね。アカーシアを残したのだって、他の呪具へ対抗する為でしょう?」
「だろうな。だが―――― 」
 それは本当は「剣」が担うはずだった役目だ。
 変質した「人」が負うものではない。少なくとも、そう考えたからこそ彼女は人の子を産んだ。国を造り、先を残した。
 血脈と、受け継がれる武器という形で呪具に挑もうとした女。
 だが、彼女の考えた途上で人から逸脱してしまった男は、ぼんやりと考え込む。膝の上の女が苦笑した。
「私はどちらかというと、今を予想していたのはエルテリアを創った方の外部者じゃないかと思ってますけどね。あの球って、今から考えても他の呪具と少し違うでしょう? 実験とか記録っていうよりこう、当たりを引くまで無作為に挑戦させるような感じで」

 時を解体し、特定の座標に戻って再構成させる呪具。
 非常に強力だったそれは、だが全ての解決を約束するものではなかったのだ。
 世界は歪められた結果の帳尻を、何処かであわせてくる。
 巻き戻そうとも上手くいくとは限らない。結局は賭のようなものだ。

「希望というか可能性というか、そういうものの一側面を示すのがエルテリアだったんじゃないかなって思うんです。残酷ではありますけど、希望って残酷なものでしょう?」
「まぁ、そうだな」
「だから、エルテリアも壊されてそこで終わりじゃないんですよ。壊される、って可能性が最初からきっと想定されてて、だから二個造ってお互い補完するようにしたわけでしょう? ならきっと、実際に壊れた時のことも考えていたはずです」
「壊した人間を変質させることをか?」
「私たちの世界の、可能性そのものをです」

 不躾な干渉の手に触れられようとも、世界は己の姿を保とうとする。
 何かがねじ曲げられれば別の箇所を戻す。自然と安定を取るように出来ているのだ。
 それだけではなく世界は、外からの手を直接撥ねのける可能性をも、また持っている。そうして生み出されたものが彼らだ。
 世界外の力を世界の采配によって与えられた二人は、当然のように呪具に相対することを選んでいる。

 ティナーシャは細い膝を抱えて、オスカーを見上げた。
「エルテリアが壊れて、アカーシアの力と混ざって私たちに取り込まれても、あれを造った存在にはきっと関係ないんです。肝心なのは『時を巻き戻す』ってことじゃなくて、当りを引くまでの挑戦行為なわけですから―――― 」
「挑戦なら今、俺たちがしているということか」
「です。まぁそろそろ私たちにも後がありませんけど」
 平然と述べられた言葉に、オスカーの胸は痛む。
 彼はそれを表情に出さないようにしたが、ティナーシャにはすぐに伝わってしまったようだった。彼女は小さく「ごめんなさい」と呟く。
「お前が謝ることじゃない。俺が選んだことだ」
「私が望んだことです」
 見慣れた寝室を、オスカーは眺める。
 本当の屋敷には、もはや帰ることは出来ない。失ってはならぬものを失って、ここまで来たのだ。
 彼は自然と妻を抱く腕に力を込めた。
 無言になる彼を気遣ってか、ティナーシャが問う。
「何か夢を見ます?」
「……いや」

 幸せだった頃の昔の夢を、選ぶことも出来る。
 だが彼はそれを望まない。時を巻き戻すことはしない。
「今」が望まずに選んだ終わりでも、それから目を逸らすつもりはないのだ。そして形こそ変われど、彼女はちゃんと傍にいる。
 そうであることを幸福だと思う。

 魔法で作られた室内、記憶で出来た妻の体を抱きながら、オスカーは微笑む。艶やかな黒髪に額を預けた。
「こうしてるのがいい。落ち着く」
「昔はすぐ城を抜けだそうとして手を焼かされたんですけどね。あの頃にこうであって欲しかったです」
「無茶言うな。何千年違うと思ってるんだ」
「今の私、主観時間もめちゃくちゃなのでさっぱりですよ」
 猫に似て欠伸をする女は、手を伸ばしオスカーの前髪をかきあげる。そして屈託なく笑った。
「私の王。どうかお好きなように。―――― 永遠に私は貴方のものですから」
 嬉しそうに魔女は謳う。
 それは、ただ一つの真実だった。






 青い塔に住む魔女と、呪いを受けた王族。
 逸脱した彼らの足跡は何処にも残らない。旅の終わりは記されない。
 ただ物語は幸福に幕を閉じる。
 二人がそうして選んで望んだ、夢の先に。