只一人

mudan tensai genkin desu -yuki

その術の使い手は、大陸の歴史を見てもそう多くはない。
魔力を持ち、歌に長けた使い手のみが可能にする技術。
人の精神を操り、密やかに動かすその術を―――― 人は「呪歌」と言う。

後にファルサスの歴史に無二の悪名を残す廃王、ディスラル廃王の幼少期について、公的な記録はほとんど残っていない。
彼の存命中は、そもそも直系王族の日常について記録を残す習慣がほとんどなかった。
それは彼らにとって、誇張ではなく命運を分ける情報だったからだ。
当時、直系王族たちは血族結婚を繰り返した結果、陰謀を含んだ倦怠がたゆたっていたので。
ディスラルは、そんな淀んだ時代にひっそりと育った。

彼の暮らした部屋は、城の奥まった一室だ。
常に窓には布が引かれ、昼であっても薄暗く保たれている。
広い部屋は常に時の止まったような静けさがたゆたっており、それは部屋の主が歌っている時も例外ではなかった。
心地よい低さを保つ女の声。
聞き慣れた母親の歌を、幼い子供は絨毯に腹這いになりながら聞いていた。
彼に取って歌は、いつも当たり前にあるものだ。
それは一週間に一度あるかどうか分からぬ、母からかけられる言葉よりも遥かに彼の傍にあった。
空気よりも当然に、血のように濃密に。
歌われるのは意味の分からぬ古い歌詞だ。

「―――― 本当はね、私はこの城から外に出て行きたかったの」

ふっと女は、そんなことを言う。
途切れた歌に遅れて気付いた子供は顔を上げた。
「母様?」
「外に出て行きたかったの。何処か別の場所に、別の世界に。でもそれは、許されなかったのよ」
「なんで外に出て行きたかったの?」
彼の知る世界は、この部屋だけだ。
窓から外を見ることもない。外に出たいとも思わない。ここには母親がいるからだ。
美しい女は、寝台に座ったまま視線をあてどなくさまよわせる。
「外のことは知らないわ。ここにいたくなかったの」
「ここって、このお部屋に?」
女はかぶりを振る。
親子であっても、彼女と意味のある会話をすることは出来ない。
物ごころついた時、既に彼女はそのようになっていた。
それでも子供は、慣れきった倦怠の中で母の答を待った。
子供を抱いたことのない白い腕が、彼へと差し伸べられる。
「ここによ。だって、血が濁ってしまうから」
「血がにごって」
柔らかな両手が、彼の頬を包みこむ。
女の美しい顔が近づく。

「それでも、愛しているのよ」

そしてまた、歌が流れる。
ディスラルを育てたのは、そんな女だ。





母が彼を生んだのは、意に添わぬ結婚の結果だったと聞いたのは長じてからだ。
強大な魔力を分け与えられたファルサス直系の血。
その血を薄めないようにと、王族たちはいつからか血族婚を繰り返すようになった。
だが彼女は――それに否、と言ったらしい。
その結果、周囲は彼女を圧した。

「女か周囲か、狂っていたのがどちらかは、どうでもいい話だろう。私としては両方狂っていたのだと思うがな」
「わたしたちが皆そうであるように?」
玉座に座るディスラルの隣で、ひざ掛けによりかかった少女が笑う。
クレステアという名を持つこの少女は、彼の姪にあたるファルサス直系だ。
彼自身と同じく、血族の淀みが生み出した毒のような少女。
後世から見れば、或いは彼ら二人はよく似ていると思われるのかもしれない。
だが、彼自身はまったく違うと思う。自分たちは少しも似ていない。
似ているところがあるとしたら、それは「ファルサス直系などどうなっても構わない」と思っていることくらいだ。
そんな自分が今、王となっていることの皮肉をディスラルは笑う。
「濁った血はいずれ破綻する。お前のようなものが生まれたことでも明らかだ」
「あら、随分な言われ様だわ」
嫣然と笑う少女に、年相応の屈託はない。
ディスラルの前以外では清廉な少女を装っているクレステアは、細い脚を上げて見せた。
その爪先に刺繍されている深紅の花がふっと光を帯びる。

―――― 無詠唱の、人を穿つ構成

だがそれがディスラルへと向けられた時、彼女の首元には既にアカーシアの刃が突き付けられていた。
皮に触れる冷ややかな感触に、少女は笑う。
「私を殺したら、父への弁解が大変でしょうね」
「弁解する必要はない」
今のファルサス王家は、淀んだ水を限界まで注いだ水盆だ。
いずれどこからか決壊する。皆、心のどこかではそれを分かっている。
あとはいつそれが始まるかだ。
ディスラルは少女を見据える。
艶やかなその美貌に、同じ血を持つ母の貌が重なって見えた。
また耳奥に懐かしい歌が聞こえる。

終わりを望んだ歌だ。
血を厭った歌。彼はそれを、子守歌として育った。
そして今でも逃れられていない。
精神の奥底から、「この淀みを終わらせろ」と誰かが囁く。
それが母親の声とは思えない時点で―――― 自分はもう駄目なのだ。

ディスラルはアカーシアを下ろすと、息を吐いた。
「出兵準備を」
「何処に出兵するの?」
「どこでもいい。ガンドナでもキスクでも」
自分はきっと、全てを終わらせるのだろう。
誰かが思うちっぽけな全てを。
その終わりにあるものは他愛もない結末だ。
尊ばれていたものが地に落ちて踏みにじられる程度のことだ。
立ち上がる彼に、毒姫が寄り添う。
「火を放てばいいわ。好きなものを好きなだけ焼けばいい」
恍惚とした囁きをディスラルは無視した。
代わりに母の歌が脳裏で繰り返す。自らを流れる血への呪詛を。

時折、目が眩む程に頭の中を赤く染めるのは何なのか。
だがいずれはそれが、全てを塗り潰すであろうことは分かる。
ディスラルは、腰のアカ―シアを見下した。
「所詮、俺たちは皆、魔女の落とし子ということか」
生まれた時から、呪われていたようなものだ。
あの魔女の血を継いだ王家に生まれたこと―――― そしてあの母親に育てられたということ。
ディスラルは声もなく笑いながら、長い廊下を歩きだす。
自らが選び取る終わり。その果てにある赤を想いながら。