黒幕

mudan tensai genkin desu -yuki

闇はアージェにとって、いつからか恐れるようなものではなくなった。
それはただあるだけの自然で、人を害するようなものではない。
徒に怯えてそこにあらぬものを見るのは、人の持つ心の弱さゆえだ。
―――― だがそんな風に思うのは、彼がもっと深い闇を長く身の内に宿していたからかもしれない。
戦場においてもっとも力を発揮する異能、神代からの呪いを以て、かつてアージェが為した殺戮は、この大陸において長く語り継がれていくのだろう。
拭えない畏怖の感情と共に。






城の中には異常な空気が満ちていた。腥い血肉の臭いが立ちこめ、遠くからは悲鳴と剣戟の音が聞こえてくる。
窓から身を乗り出すようにして死んでいる兵士の形相は凄まじく、人の狂気がそこかしこに漂っていることを通りがかる者に知らしめた。
何処か懐かしい殺伐とした有様を横目に、アージェはただ廊下を先へと進んでいく。

即位して間もないノイディア王を狙っての襲撃は、けれど見た目の凄惨さとは別に、速やかに処理されているようである。
元々この反乱は、予定ではもっと大規模なものになるはずだったのだ。それを覆したのは王の弟分である一人の青年で、彼は計画を知ると巧みに手を回して、反乱者たちの力を次々殺いでしまった。いわばこの襲撃は最後の残り火のようなもので、城からはあらかじめ戦えぬ者たちは避難させられている。

アージェは王側の要人であるその青年を探して、先程から城の廊下を歩き回っていた。曲がり角に差し掛かった時、奇声と共に横合いから剣が突き込まれる。彼はそれを造作もなく己の剣で弾いた。
「おっと」
見ると相手は格好からして襲撃者の一人であるようだ。血走った目の若い男は、アージェの顔を一目見て吠えた。
「先王の腰巾着か!」
「誰がだよ」
いささか不機嫌に返したアージェは、返す一閃で男の体を斬り伏せる。声もなく倒れたその背に吐き捨てた。
「俺の主人は一人だけだ。……それよりあいつ何処行ったんだ」
この国には長く住んでいるとは言え、未だに城内の構造はよく把握出来ていない。ここより遥かに広く、また僅かしか住んでいなかったケレスメンティアの城については大体覚えていたのに不思議なものである。
アージェは首を捻りながら朧気な記憶に頼って廊下を進んでいった。途中断続的に現れる襲撃者たちを難なく排除していく。

探していた相手を見つけたのは、それから二十分後のことだ。
謁見の広間で自ら剣を取っていた青年は、現れたアージェを見て目を丸くした。
「父さん、どうしたんだよ」
「これを母さんから預かってきた」
懐から出した小さな箱をアージェは無造作に放る。慌ててそれを受け止めた青年は、黒い布張りの小箱に首を傾げた。
「何これ」
「今日おまえの誕生日だろ。それでだ」
「………………え、そんなことの為にここまで?」
「母さんにとっては大事なことだからな」
この国の存亡よりも、と言いたげな父親に、青年は一瞬唖然とする。だがすぐに照れくさげに頭を掻いた。今回の一件において、母親がどれだけ助言をしてくれたか思い出しているのだろう。気まずげな青年は落ち着きなく視線を彷徨わせると、改めて父親を見る。
「ありがとうって言っといて」
「分かった。けど後で自分でも言いにこいよ」
「勿論。ってか父さんからは何もないの?」
「ここに来るまでに二十人くらい殺してきたから、今年はそれで」
「……うへえ」
「あとどれくらい残ってる?」
何ということのないように問う父親に、青年は黙って窓の外を示した。
アージェが歩みよって裏庭を見下ろすと、夜の闇の中、三十人程の貴族の私兵たちが松明を手に集まっている。
何やら露台の王と言い合いになっているらしい謀反者たちをアージェは眺めた。
「もうあとちょっとだな」
「っつっても、油断は出来ないからさ。ああやって固まられてると面倒だよ」
「固まってる方がやりやすいこともある」
言いながらアージェは己の左手を一瞥した。かつて戦場において多くの命を屠ったことを思い出す。

闇は、恐れるようなものではない。
それより恐ろしいものを、彼は確かに現出させたことがあるのだ。
敵味方問わず居合わせた者たちの顔を恐怖で引きつらせた、あの時あの場の光景を忘れることは一生出来ないだろう。
後悔はない。だが、忌まれる自覚を失ったこともなかった。

アージェは一つ頷いて窓から離れる。
「じゃ、俺は帰る」
「え。手伝ってくれないの?」
「もう十分手伝っただろ。帰って母さんのご飯食べて寝る」
「うへ……」
がっくりと肩を落とす息子に背を向けて、アージェは広間を後にする。
歴史の変わり目から遠ざかる彼を留める者はいない。
点々と残していく足跡は、黒い血で出来ている気がした。