残されしもの

mudan tensai genkin desu -yuki

異世界に迷い込み、異世界で暮らすようになった雫にとって、現地の味覚と自身のそれがさほど乖離していないというのは幸運だったろう。
火にかけた大鍋の中を、大きな木杓子でかき混ぜながら、雫は甘い香りに目を細める。
「これ、このままでも食欲を誘いますね。卵色がおいしそうです」
「まだ全然途中なんですよ。味付けも途中ですし」
調味料の瓶を並べながらそう言うのは、美しい黒髪の魔女だ。
時折ふらりと雫のもとにやって来ては、帰省を手伝ってくれたり様子を確認してくれたりする人外。
かつてはこの国の王妃でもあったティナーシャは、透明な液体の入った小さな器を雫に手渡した。
あらかじめ計量されたそのシロップを、彼女は鍋に回し入れる。

今回訪ねてきた魔女に、「何かレシピを教えてください」と言ったのは純粋な好奇心だ。
雫もこの世界に来てから数年、大分こちらの料理に慣れてきたが、広い大陸にはまだ見ぬ料理が溢れている気がする。
ならば本にでもあたって研究を―――― と思ったが、どうにも調味料の入手が難しいものが多い。
そこでふとティナーシャに聞いてみたのだ。「今でも作れる変わったレシピが知りたい」と。

「これは、花の蜜漬けを何種類か組み合わせて味付けるものなんですよ」
「すごく美味しそうなんですけど、自分一人で再現できる気がしないです……」
材料は卵や牛乳、砂糖以外はティナーシャが用意してくれたもので、計量したのも彼女だ。
だがティナーシャは雫の懸念にくすりと笑った。
「ちゃんと書き付け残しておきますよ。それに、雫さんは料理勘がいいですから。一度コツをつかんだら、後は自分で調整すればいいんです」
「な、なるほど……?」
「大丈夫ですよ。元々これは家庭料理ですから、慣れれば簡単です」
ティナーシャは、その後もてきぱきと指示を出していく。
そうして最終的に鍋の中身は、テーブルの上に小さな陶器のカップに注がれた。
このまま冷水で器ごと冷やすと、中身がほどよく固まるのだという。鍋を洗いながらティナーシャが補足する。
「子供が喜ぶんですよ、これ。誕生日会とか人が集まる時に作るんです。私の祖国の料理ですよ」
魔女はふっと微笑する。
その言葉に、雫は遅れて顔を上げた。鍋を洗うティナーシャの横顔を見る。

―――― 彼女の祖国は、とうに滅んだ国だ。
ティナーシャはかつてファルサスの王妃だったが、ファルサスが祖国ではないと聞いた。
一夜にして滅びた、かつての魔法大国。
その唯一の生き残りが彼女だ。
自分の国のことを、もはや自分しか知らないということ。
そんな時に、心に抱く感情は、どのようなものなのだろう。

雫は遠い自分の祖国を思い出す。
この世界では自分以外、誰も知らない国。
それでも、あの国で今も家族が平和に暮らしていると思うと、自分も幸福でいられる気がした。

カップに注がれた卵色の菓子を見つめて、雫は頷く。
「ティナーシャさん、よかったらもっと色んな料理、教えてくれませんか?」
「ん、いいですよ。私も楽しいですし。どんな料理がいいですか?」
「そうですね……エリクが驚くような歴史的に有名な料理とかあったら嬉しいんですが……」
「ありますよ。そういうの色々。美味しくないものも結構混ざってますけど」
「そ、それは……」
出来れば美味しい方がいいが、味覚の傾向は時代によっても異なるのかもしれない。
ただティナーシャが美味しくないというなら、美味しくないのだろう。
雫は、料理上手な魔女に羨望の目を向けた。
「ティナーシャさんはこの大陸の生き字引ですね……」
「死んだことありますけどね。あはは」
「わあ。……あ、あと人参を使った料理もあったら――」
「それは力で押さえつけて、無理矢理口に捻じ込めばいいんですよ」
生まれた国から遠く離れて、二人は今の旅路を楽しんで歩む。
その先がたとえ何処にも繋がらなくても、幸福であることに間違いはなかった。