すべてを捧げよう

mudan tensai genkin desu -yuki

無数の生涯で、どのような彼女の姿を一番多く見てきたかと言えば、単純には寝姿かもしれない。
朝起きられずぐずぐずと寝処で縮こまっている姿。時間的にはそれがもっとも長く、だから彼の脳裏に思い浮かぶ妻は、駄々をこねる子供のように寝台でうつぶせになっていることも少なくなかった。
しかしそれは、多面性を持つ彼女のほんの一部にしか過ぎないだろう。
女王であり、魔女であり、王妃であった女。
実際のところ今の状態になってから、彼がしばしば思い描く妻の姿は、大きな椅子に座している艶やかなものだ。
見覚えのない白い革張りの椅子。同色のドレスを着てそこに深く腰掛けている彼女は、少し物憂げに微笑んでいる。
長い黒髪が肘掛にかかって広がり、細い肢が優美に組まれる。
もはや肉体を持たぬ魔女。泰然とそこに在る彼女は―――― 誰よりも女王のように、見えた。



(オスカー、やっぱり遠いです。よく分からない。データを引き出すには、もっと近い端末を探しましょう。)
「そうか」
妻の声に、オスカーは端末に繋いでいたエギューラ糸を引いた。改めて周囲を見回す。
眩しい程に真白い部屋には、彼らが向かう端末以外に何もない。
青白く光る円筒をコアとして、大きな硝子球が外周を覆う形の端末は、この都市にやって来てからいくつか見つけたものと同じだ。
都市の中心にある《塔》へと繋がる端末装置。その存在を知ったオスカーたちは、見つける度に中に進入して敵の情報を集めようとしているのだが、相手方の抵抗や端末自体の制限により、なかなか芳しい成果を出せないでいた。
彼よりも余程エギューラ糸を通じての攻撃に長けている魔女が、頭の中で溜息をつく。
(面倒ですね。直接《塔》に行ければいいんですが)
「その《塔》がないんだから仕方ない。迂遠だが、別の端末を探そう」
手に入れた情報の中には、《塔》に繋がっている端末は一つのエリアに一つしかないという話もあった。
それが事実なのだとしたら、これ以上この街に留まっても意味がない。
オスカーは自分の中の妻へと穏かに命じた。
「じゃあ、とりあえず地上に戻るか。転移出来るか?」
(勿論)
嬉しそうに聞こえるその声は、何処か甘い響きを持っている。
転移の為にぶれる視界の中、白い椅子に座す魔女は、いつもの通り目を閉じて微笑んでいた。



精神魔法が形成する逢瀬の場所は、いつもその時によって異なる。
どちらからともなく選び出すそれらは、いずれも過去の記憶をもとにして再現される景色だ。
その日、窓のない小さな部屋で落ち合うことになった彼らは、束の間の温度を分け合って喪失の裏側を過ごしていた。
オスカーは、自分に抱きついている妻の頭を撫でながら、ふとあることを思いつく。
「ティナーシャ」
「はい?」
「この具現化は、今この場に新しい物を作ることも出来るのか?」
「出来ますよ」
あっさりとそう言って、魔女は指を鳴らす。空中に現れた黒い蝶は、そのままくるりと部屋を一周すると灰色の壁の向こうへ消えた。
かつてはよく見た魔法の一種に、オスカーは思わず顔を綻ばせる。
「俺もやってみたい」
「じゃあ具体的に想像してください。私が汲み取って作りますから」
そう言って彼女が額を触れ合わせるようねだってきたのは、単なる甘えの仕草なのだろう。
今の彼女はオスカーの内心を全て把握することが出来る。伝えようと彼自身が思うことなら尚更だ。
だが彼は、魔女の愛らしい仕草に微笑んで自分の額を触れさせた。思い描くイメージをそのままに伝える。
「これを? 作りたいんですか?」
「ああ」
肯定を返すと同時に、部屋の中央に白い椅子が出現する。
彼が想像したままの革張りの椅子は、灰色の部屋によく映えて艶やかだ。
ティナーシャは体を起こすと不思議そうにその椅子を見た。
「これなんですか? 私、初めて見た気がしますが」
「俺も実際に見るのは初めてだな。―――― お前に似合うと思った」

細い首を、指でなぞる。
繊細なレースの立襟が、彼の望むままに魔女の躰を飾った。細い鎖骨の間を、滑らかな胸の谷間を、指先が滑るごとに白いドレスが現れる。
そうしてゆっくりと足首までをオスカーが探っていった時、彼の唯一の女は瀟洒な純白の衣裳に、しなやかな身を包んでいた。
自分の体を見下ろしていたティナーシャは、顔を上げて微笑する。
「それで?」
「座ってみてくれ」
―――― 彼女を自分好みに飾ることは、今までもしばしばやって来た愉しみの一つだ。
その度にティナーシャは笑って、或いは嫌がりながら、けれど彼の望む通りの姿をしてきた。
今もそうして白い椅子に座る女を、オスカーは深い感慨を以って眺める。嘆息が胸の奥からこぼれ落ちた。
「本当に……女王だな」
気品と威。優美さと清冽さ。
不安定で、何処までも研ぎ澄まされたその存在は、万物を従え君臨する女王のように見えた。
かつて人であった頃に「玉座になき女王」と言われていた彼女とは違う。
今の彼女は、彼の中に棲み彼を支配する女だ。「私の王」と、嬉しそうに言う彼女の気持ちが、幾許か分かる気がする。
「オスカー?」
「いや……」
―――― 思っても言わないことはある。
かつてはそのようなことばかりだった。濁って沈んだものを飲み込んで、上澄みだけを彼女に伝えていた。
だが今は、それも無意味なことだろう。オスカーは苦笑よりも重い息をつく。
「一度お前に仕えてみたかったな」
「似合わないこと言わないでくださいよ」
紛れもない本心に、ティナーシャは頬を膨らませる。
けれどそう出来ていたならば、ある種の幸福を得ることは出来ただろう。
彼女の為だけに生きて、彼女の為だけに戦う生を、選ぶことが出来たのなら。
きっと今よりもずっと――――



目を閉じていた時間は長くなかった。
名を呼ばれてオスカーが彼女を見ると、いつの間にかその隣に黒い椅子が置かれている。
一目で彼女のものと揃いと分かるその椅子を、ティナーシャは手で指し示した。
「どうぞ」
「……ああ」
言われるままに、オスカーは寝台を立ち黒い椅子に座りなおす。
隣り合う一対。揃って遥か遠くを見る二人。
これが自分たちなのだと、オスカーは改めて実感した。



夢から醒めた時、彼はいつも一人だ。
だがそれは孤独であることを意味しない。
誰も踏み込めぬ場所、彼の中に一人座す女は今も泰然と微笑んでいる。
玉座になき女王は、こうして悠久の果て、ついに己の玉座を得たのだ。