アウラティカ 02

禁転載

アウラティカは走る。小さな胸を弾ませて。
ドレスの裾を持ち上げて、真っ直ぐに中庭に向って走る。
木々が作る木漏れ日の上を駆け抜けて、生い茂るエニシダの中を駆け抜ける。
そうして彼女は中庭の中央に位置する噴水の前へとたどり着いた。そこにいた男は彼女を見て笑う。
「息が上がっているな、アウラティカ」
「来ているならそう言って頂戴! 時間を無駄にしてしまったわ!」
「それは失礼。王女は行儀作法の授業で忙しいらしいと聞いたからな」
「貴方の為なのよ、セデウス」
腰に手をあててそう嘯くと、男は可笑しそうにくすくすと笑った。
今年十九歳の彼は最早少年とは言えないがっしりとした体つきになっている。
二年前から才を認められ父王の宰相扱いとなった彼は、それと前後して何だか言葉遣いも変わってしまい、すっかり「大人」を感じさせる相手となっていた。
その為アウラティカは一時期、何だか置いていかれたような気分を味わったものだが、彼女も十五歳になるとようやく婚礼の話が現実的になり、ささやかな不安も拭 われつつある。
セデウスは眉を上げている婚約者を見やって首を傾げた。
「私の授業ではないのに、私の為になるというのか?」
「貴方の妻になる女が礼儀知らずであったら、困るのは貴方でしょう?」
詭弁ではあったがそう言い返すと彼は両手を上げて降参の意を示す。
アウラティカは真面目くさった表情を崩して笑うと男の胸の中に飛び込んだ。
「お父様もお兄様も、もう少し口を慎まないとセデウスに見放されてしまうって仰るのよ。本当かしら」
「どうであろう。本人に聞いてみねば分からぬな」
「なら聞いてくださらない? セデウス殿下。わたしは彼の方の妻になれるのかしら」
喉を鳴らして笑う男の腕の中で、アウラティカは澄ました顔で彼を見上げる。
こう聞いてどんな答が返って来るのか、彼女は聞く前から既に知っていた。 それは会う度に繰り返される決まりきった問答だからだ。
案の定セデウスは彼女の髪を撫でながら囁いてくる。
「どのような色の花でも、それがアウラティカであるのなら。私にとってこれ以上の価値はない」
「我侭で困らせてしまうかもしれないわ」
「多少の棘はつきものだろう」
「多少じゃなかったら?」
「その時は要相談だ」
二人は顔を見合わせると堪え切れず笑い出す。
希望に満ちた未来を語る新緑よりも鮮やかな声が、風に乗って花々を揺らしていた。

人は変わると、周りはみなそう言う。
ならば何故変わるのかと、どう変わるのかと聞いても苦笑されるだけで答はもらえない。
ただ、人は変わる。
そして、そのことを十五になったアウラティカは本当にはまだ知らないでいた。
いずれは終わる子供時代。
その区切りがいずこにあったのかと後に考えれば、それはこの年にあったのかもしれない。

さして広くはないその部屋にいたのは、アウラティカ本人の他には仕立て屋と女官たちのみであった。
一人を除いて壁際に下がった女官たちは、美しく成長した姫に熱い視線を送る。
「実にお似合いでらっしゃいますわ、殿下」
「そう? おかしくはないかしら」
「とんでもございません! こんなお美しい花嫁は他にいらっしゃいませんわ」
アウラティカが幼い頃から傍に仕えてきた女官マトラの感嘆に、彼女はあらためて自分の姿を見下ろす。
淡い紅色のドレスは半年後に控えたセデウスとの婚礼の為に仕立て上げられているものだった。
壁にかけられた大きな姿見に視線を送り、アウラティカはようやく微笑む。
「子供っぽくはない? この色、セデウスが好きなのだけれど……」
「そのようなことはございませんわ。セデウス殿下もきっと喜ばれるでしょう」
「ならよかったわ。ありがとう」
アウラティカはマトラと仕立て屋に笑いかけた。
無邪気な幸福が透けて見えるような表情に自然と彼らの目元も緩む。
八年前から決められていた結婚を心待ちにする彼女の手足は昔と比べてすらりと伸び、金に近い琥珀色の瞳が印象的な愛らしくも美しい少女に育っていた。
さすがにセデウスは三年ほど前から多忙の為、以前のように毎月会いに来るということはできなかったが、 それでも二-三ヶ月おきには欠かさず彼女の顔を見に訪ねてくる。中庭で他愛も無い時を重ねる二人は、 政治の為に定められた婚約者というより仲睦まじい恋人同士のように周囲の目には映っていた。
セデウスの反応を想像して婚礼の支度に一喜一憂するアウラティカは、みなの祝福の思 いを一身に受けて、慌しくはあったが充実した毎日に夢中になっている。 その姿をマトラは慈しみを込めて見やった。
「陛下もアウラティカ様のご婚礼を早くご覧になりたいとのこと。今から楽しみにされてらっしゃいますわ」
「お父様はお体の調子がよろしくないようだから……お兄様に早めに王位を譲られればよろしいのよ。
 玉座にいらっしゃるだけでお体に響いておられるようだわ」
父王について率直な意見を述べるアウラティカに、しかし臣下であるマトラはさすがに「さようでございますね」とは言えない。
彼らは揃って当たり障りのない沈黙を守ったが、それでもアウラティカの婚姻が済めば王の心配も一つ減るであろうとは内心思うところであった。
何しろ彼女とセデウスとの婚姻は、単なる末娘の結婚というだけには留まらない政治的な意味を持つ。
大陸上に絶えず戦乱が巻き起こる暗黒期において、このクルースと隣国ウォルザが手を取り合えば、他の国々に脅かされる可能性も激減するはずだ。
現在の風潮では手段を選ばぬ騙しあいが常と言われる外交だが、クルースとウォルザはここ数十年比較的好ましい関係を保てている。
半年後の婚姻後はそれが、更に安定した関係へと変わることだろう。
そのことを何処まで意識しているのか、ただ嬉しそうな表情を隠せないアウラティカは試着したドレスについて仕立て屋に確認を取っている。
彼女のその様子を知っている者はみな、政略結婚というきっかけではあったにせよ、セデウスとアウラティカの出会いはよきものだったのだと信じていた。

鏡越しにドレスの後ろを見ていたアウラティカは、けれど鏡面に映った時計を見て顔色を変えた。
慌てて傍にいたマトラに手を伸ばす。
「いけない! もうすぐセデウスが来てしまうわ! 早く着替えないと……」
「セデウス殿下に今のお姿をお見せしないのですか?」
「駄目よ、内緒にしておくの。当日びっくりさせてやるんだから。さぁ、手伝って頂戴」
必死な少女にマトラは笑いを堪えながら「かしこまりました」と頭を下げる。主人の背中に回り、ドレスの釦に手をかけた。
しかしその時、扉が激しく叩かれる。尋常ではないその音に部屋の中にいた全員が顔を見合わせた。
彼らの顔を眉を顰めて見回すと、アウラティカは女官の一人に「開けなさい」と命じる。
扉の隙間が出来るなり飛び込んできた兵士は、そのまま床に跪くと王女を見上げた。
事態が分からぬ女官たち以上に驚愕に染まった顔立ちで兵士は口を開く。
「グディス殿下が……」
「お兄様がどうされたの?」
「賊に襲われ……お、お亡くなりに……」
「…………え?」
部屋の空気が凍りつく。
将来の幸福を疑ってもみなかったアウラティカの世界に、初めての亀裂が入ったのはこの時のことだった。

「ディセア、アウラティカ……」
哀切のこもった父の呼びかけに二人の姉妹は頭を下げる。
アウラティカは何度繰り返し説明されても、兄が若すぎる死を遂げたのだと、そのことがよく飲み込めなかった。
もうすぐ王位を継ぐと思われていた兄は、決して頻繁に彼女と顔を合わせるわけではなかったが、会えば必ず優しく抱きしめてくれた。
彼女の結婚をまるで我がことのように楽しみにしてくれていたのだ。
兄は三日前から東の領地へと視察に出かけており、その道中で正体の分からぬ暗殺者たちに狙われ、命を落としたのだという。
遺体は城に戻されていたが、あまりの状態にアウラティカが見ることは王によって禁じられていた。
そのこともあって、兄がどんな死を遂げたのか彼女には想像できない。
たちの悪い嘘だったのだと、今言いながら彼本人が現れても納得できるような気さえしていた。
言葉にならない沈黙の後に、王は深い溜息をつく。
ただ一人の息子を喪った悲しみと、王としてそれだけに留まらない失望が一息の中には込められていた。
「本日より一年間、城は喪に服す。アウラティカの婚礼は延期となるが……その旨ウォルザには連絡しておこう」
アウラティカはより一層深く頭を垂れる。
楽しみにしていた婚姻が遠ざかることについて彼女は何の異議も感じなかった。
言われるまでもなく当然のことだ。今日は会えなかったセデウスも納得してくれるだろう。
それよりも兄のことがただ彼女の心を占めていて―――― 泣き叫んで現実を批難する為の最後の一滴を、彼女は探して目を閉じた。