アウラティカ 03

禁転載

セデウスの前で泣きたくないと彼女が思ったのはもっと後のことだ。
だから兄が死んだという淋しさがようやく実感となって押し寄せてきた時、アウラティカは彼の腕の中で泣いた。
閉ざされた庭で切々とした悲しみをぶつけられた彼は、何も言わずただアウラティカの髪を撫でる。
ゆっくりと痛みを分かち合う時間。
それが過ぎ去ってアウラティカがやっと少し落ち着いた時、セデウスはただ沈痛なだけでは収まらない険しさを秘めた瞳で彼女を見つめていた。
「アウラティカ。こんな時に言うのは気が進まない。
 だが、貴女も気をつけるのだ。ダセルカはクルースを狙っている」
「……ダセルカ、が?」
それはクルース、ウォルザ共に国境を接している隣国の名である。
三国はまるで三角形の頂点をそれぞれ務めるように、北がウォルザ、西がクルース、東がダセルカ、という位置関係になっているが、ダセルカと他二国の国境には流 れの速い大河、ユーエルスム河が通っている。橋もかからぬほどの広い河に、その為ダセルカと他二国との国交はあまり盛んではないのだ。
けれど今、その境界を乗り越えてダセルカはクルースに手を伸ばそうとしているのか。
アウラティカはセデウスを見上げる。
彼が嘘や冗談で彼女を脅かしているのではないことは、その目を見れば明らかだった。
彼女は緊張と困惑を共に飲み込んで―――― 代わりに疑問を吐き出す。
「お兄様はダセルカに殺されたの?」
セデウスが沈黙したのは僅かな間でしかなかった。彼はすぐに「分からない」と口にする。
けれどその間はアウラティカに確信を与えるに充分なものだった。彼女はセデウスの腕を掴む。
「そうなのね? お兄様が視察に行かれたのはダセルカに程近い東の領地だわ。そこでダセルカがお兄様を……」
「滅多なことを言うものではない、アウラティカ。どこで誰が聞いているのか分からないのだ」
「この庭にわたしと貴方以外の誰が入れるというの? ねぇ、教えて頂戴」
はっきりとした答をもらうまで決して離さないとばかりにきつく男の服を掴んでいた指はしかし、彼の手によってあっさりとはずされた。
セデウスは逆に彼女の指を握りながら小声で、しかし強く告げる。
「アウラティカ、見慣れぬ顔を信用してはならない。余程のことがない限り外には出るな。貴女に何かあったら皆が悲しむ」
アウラティカは答をもらえないことに承服しかねたものの、彼のはぐらかしていると言うよりは切実な物言いに、結局はそれ以上の抗弁をやめた。
ただ項垂れながらも頷く彼女の髪をセデウスはまた撫でる。
「少しの辛抱だ。必ず私は約束を守る」
不安に暮れるアウラティカにとって、今はその言葉だけが強く、温かいものだ。彼女は微笑もうとして泣き笑いの表情になった。
こんな時代、暗殺の標的になっている要人は大陸中無数にいるのだろう。
そして彼女もその一人である。そういう現実なのだ。
王族として生まれたことに付随する責務から逃れることはできない。死した兄もそう思っていたはずだ。
だからアウラティカは自らに刻み込む。
恐怖に屈せぬように。影の中に蹲らないように。
「わたし……もう少ししたら頑張るわ。だから色々教えて。待っていて頂戴。
 クルースの王女が貴方の元に嫁ぐまで……」
「分かった」
今すぐには無理であろう。
しばらくは兄の死が頭から離れない。迷いなくは笑えない。
けれど今少しの悲しみが許されるのなら。
その時はこの国を支えるべき一人として、出来るだけのことをしよう。志半ばで命を絶たれた兄の分まで。
そしてその道はすなわち、セデウスと共に行く道でもあるはずだ。アウラティカはそう信じる。
深く息を吐き出す彼女のか細い体を、男の腕がそっと抱きしめる。
最早子供ではなくなった二人が寄り添う小さな楽園。
この中庭だけが、未だ変わらぬ彼らの王国であったのだ。

兄が亡くなってから、アウラティカは政治の勉強を始めた。
それがひいては国や自分を守るための知識になると思ったのだ。
彼女は数人の教師から歴史や外交について学び―――― その結果、勉強の中身だけではなく、 いかに自分が狭い世界で甘やかされた姫君だったのかという現実を知る羽目になった 。
今まで彼女は何も知らないでいた。 王女として必要とされる行儀作法のみを身につけてきた。
だが、遅ればせながらの勉強によってアウラティカは、単なる隣国だと思っていたダセルカが過去幾度となくクルースに手を伸ばそうとしていたことをはじめ、国内外に様々な問題があることをようやく実 感と共に認識することができたのだ。
臣下である教師たちが口にしにくいであろうことはセデウスに尋ねた。
彼も決して何でも率直に教えてくれるというわけではなかったが、アウラティカが重ねて請うと遠回しに思考を導いてくれる。
兄の喪が明けるまでの時間、彼女はそうして周囲の人々に頼りながらも必死で歩くことを選んだのだ。

「セデウス、教えて頂戴。これはクルースがやったことなの?」
「さぁ。昔のこと過ぎて分からないな」
その日アウラティカが指し示していた一節は百五十年前、まだ時代が戦乱満ちる今の暗黒期と言われる前の事件についての記述である。
当時クルースとダセルカの間にはユーエルスム河の漁の権利を巡って、河に面した領地の間で大きくはないが深刻なせめぎあいが起こっていた。
それがある日、クルース側の領民の漁師が謎の死を遂げるという事態に至り、ついに両国の王は話し合いの場を持つことを決定したのだ。
第五代クルース国王レムイは、死亡したのがクルース国民であるという事実を主張して会議の場所をクルース国内に置くことをダセルカに認めさせた。
ダセルカは次期王である第一王子と宰相をその場に向わせると連絡し、実際記録ではその二人と護衛の兵士たち三十人は予定通り城を出発している。
両国のみならず周辺の国々が注目したその会議。無事に決着を見れば、両国の間には今より遥かに安定した友好関係が築かれていたかもしれない。
しかし結果はそうはならなかった。
そもそも話し合い自体が始まらなかったのだ。
ダセルカを出発した王子一行は、ユーエルスム河を渡りクルースに入る直前で何者かに襲われ、物言わぬ屍とされてしまった。
ちょうど数ヶ月前、アウラティカの兄が殺されたように。
事態を把握したダセルカはクルースがそれを指示して行わせたのではないかと疑い、自らも調査を重ねながらクルースに追及の手を伸ばした。
けれど数年に渡る調査によっても真実が明らかにされることはついになく―――― それよりダセルカはクルースに対し、強い敵愾心を抱いたままなのだという。
「これ、おかしいでしょう? この季節にこの時間なら、ダセルカの王子が襲われた河上にはクルース側の漁船がいくつも出ているはずだわ。
 ダセルカ側の使者が皆殺されるような戦いなら音にせよ何にせよ気づかれないはずがないのよ。
 でも戦いどころか犯人の船も人影も目撃証言がない。これはクルースが証言を黙らせていたのではなくて?」
「分からない。私にとってはどちらも他国の話だ」
「セデウス! わたしは本当のことが知りたいのよ!」
表情を崩そうとしない男にアウラティカは苛立ちをあらわにした。まるで自分が子供扱いされているように思えたのだ。
彼はアウラティカの目を見つめ返す。
その瞳の奥に一瞬、どこか諦めたような色が浮かんだ。
よく知っているはずの男。けれどその時アウラティカは彼が何を思っているのか分からなかった。
セデウスは彼女から視線をはずすとふっと息を吐き出す。
「百五十年も経っている。今更真実など誰にも分からない。
 けれど……ダセルカはクルースがやったことと思っている、ということだけは本当だ」
―――― 矢張り、そうなのだ。
アウラティカは我知らずかぶりを振る。
ダセルカがクルースへと表裏問わず攻撃的な干渉をし始めたのはこの事件以後のことだ。
次期王を失った彼らにとって、この事件はいつまでも忘れられない、妄執を生み出す記憶になっているのだろう。
けれどもし、この事件が遠因となって彼女の兄もまた殺されたのだとしたら。
それはあまりにもやるせない不毛な連鎖ではないかとアウラティカは思う。
兄を喪った時、彼女もまた思ったのだ。誰の仕業にしろ、その犯人を引き裂いてやりたいと……。
憎しみと復讐はいつまで繋がり、重ねられていくのか。
もし自分がその渦中にあるとして、それを断ち切ることは出来るのだろうか。
苦渋の表情で考え込むアウラティカの耳にセデウスの声が響く。
「とにかく貴女は自分を守ることだけを考えろ。他のことは皆が何とかする」
彼女は顔を上げず、返事もしなかった。
いつも温かいはずの男の声が妙に冷たいものに感じられ、その正しさを認識しながらも頷くことができなかったのだ。
あと三ヵ月で城の喪は明ける。
その後アウラティカは彼に嫁ぎ……クルースを去る。
王族同士の婚姻によって結ばれる友好。それさえ迎えられれば、クルースは戦乱の時代、何の心配もしないで済むようになるのだろうか。
自らの結婚が持つ本当の重みに気づいたアウラティカはあまりの重みに言葉を失う。
無邪気に笑い、式を楽しみにしていた頃がひどく遠い日のことに思えた。

けれど、婚姻についてのこの懸念は杞憂に過ぎなかったと彼女は一月後、思い知ることになる。
それは彼女が予想だにしなかった事態、アウラティカの姉が遠乗りに出た先で行方不明になったという知らせが、城にもたらされた時のことだった。