アウラティカ 04

禁転載

その日、アウラティカが姉の誘いを受けていたらどうなっていたのだろう。
彼女は幾度となくありえない可能性について考えた。考えざるを得なかった。
答は既に出ている。アウラティカが自分が望んだ授業をよそに置いて出かけるはずはないのだ。現に彼女は遠乗りには行かなかった。
けれど、彼女は一生涯に渡り、何度もその日のことを思い出す。
「御免なさい。また今度ご一緒するわ」と言った時の、少し淋しそうな姉の顔を。

遠乗りに出かけたまま忽然と姿を消した姉の行方は、一月経っても杳として知れなかった。
王女の失踪について城は手を尽くして捜索したが、彼女も彼女の乗っていた馬も、従者もろとも忽然と姿を消したままである。
既に王女は死亡してしまっているのではないかという意見が口には出されずとも城に色濃く漂い始めたある日、アウラティカは王のもとに呼び出された。
もともと兄が死んでから目に見えて心身ともに老け込んでいた父王は、この一ヶ月でもはや命そのものも長くはないのではないかと周囲に思わせるくらいやつれはて てしまっていた。 アウラティカは二人だけとなった父と娘として、悲しみに満ちた目を伏せると王に向って深く頭を下げる。
「アウラティカ」
「はい、陛下」
「ディセアは……帰って来ぬのだろうな」
「まだ、分かりません」
そう言う他にアウラティカには何もできない。
―――― たった一年の間にあまりにも城の中は様変わりしてしまった。
人々は亡くなった王子を悼み、いなくなった王女を思ってその表情は浮かない。何者かの陰謀を疑い、戦争の予感さえ感じて慄く者も少なくなかった。
もし国というものが王家にその多くを頼っているのならば、今が間違いなくクルースの瀬戸際であろう。
王の止まない溜息がまた一つ、よく磨かれた床の上に落ちる。
「アウラティカ」
「はい、陛下」
「もう分かっておるな……。お前しか残っていないのだと」
彼女は今度はすぐに返事をすることができなかった。
父が何を言いたいのか、それは分かっている。
分かってはいるのだがあまりにも重いその予想に彼女は自ら進んで答えることが咄嗟にできないでいた。
沈黙する末娘に父は言を重ねる。
「ディセアは帰って来ぬ。過去そうやって何人もの王族が闇の中に消えたのだ。
 だから―――― お前が次の女王になれ、アウラティカ。玉座につき国を支えて民を守れ」
粛然たる王命。
アウラティカは唇を噛む。
世の中には狂おしいほど玉座を欲する人間もまたいるのだと、彼女は知っている。
その為には肉親の命を奪うことすら厭わない人間さえいることも。
けれど彼女はそうではなかった。玉座につく自分を想像したこともなければ、つきたいと思ったこともない。
それはアウラティカにとって自分の進む道の先にあったことは一度もない未来だ。その未来が彼女の眼前に迫ってきている。
嬉しくはなかった。
ただ「重い」と思っただけだ。
アウラティカは顔を上げる。
悲しみが多分に入り混じった、だがそれだけではない父娘の視線が交差した。
高い位置にある窓から、青い硝子越しに硬質の光が降り注ぐ。
他に誰もいない部屋には言葉よりも思いがこもる空気がたゆたった。
小さな唇の端を上げて、アウラティカは微笑む。
ちゃんと笑えているか分からなかったが、そうすることが父の為になるのではないかと思ったのだ。
「謹んで―――― お受けいたします。この身に負える責務にかけて」
澄んで見える世界。
だが人は、自分の目を通してでしか世界を見る事ができない。
だから今、こんなに透き通った嘆きがそこかしこに満ちているように見えるのも、きっと自分にだけなのだろう。
女王となることを選んだ娘は目を閉じる。
長い睫毛から一粒の雫が零れ落ちた。
父王の視線はその雫を追って床に注がれ……最後の溜息が娘の涙に寄り添った。
「そうか……」
王は短い一言を最後に、力尽きたかのように椅子に深く体を沈みこませる。
翳りを帯びたその姿は、末娘をも失い更に年老いてしまった一人の父のように、アウラティカの目には映ったのだった。

こうしてアウラティカの歩む道は急激な転換を余儀なくされた。
若干十六歳の王女の即位予定はまずは城内と貴族たちの間に公表され、彼らは困惑しながらもその発表に久しぶりの明るさを見出そうとする。
即位式は三ヵ月後と定められ、あちこちで慌しい準備が進み始めた。
それはまるで全ての時の進みが二倍になっているようだと、アウラティカは思う。自分もまた倍の速度で年を取っているようだと。
文官たちが早足で廊下を行き交うその日、彼女は幼い頃を過ごした離宮に向って廊下を歩いていた。
行過ぎる臣下たちが頭を下げてくるのに対し意識した笑顔で返す。だが、彼女の頭の中はこれから会う男のことで占められていた。
アウラティカは供を断り、渡り廊下から緑が生い茂る庭へと出る。かつてはとても広く感じられた小さな中庭へと足を踏み入れた。
そこには既に彼が待っている。
九年間いつも変わる事がなかった嘘のない視線が、やって来たアウラティカを見つめた。
彼は何も言わない。自分からは口を開かない。
だから彼女は、万感の思いを込めて男の名を呼んだ。
「セデウス……」
「アウラティカ」
二人の言葉はそれで途切れた。
まるでお互いの名を呼ぶことを、呼ばれることを味わうような静寂。
それは指の隙間から零れ落ちるものを眺めるに似たやるせなさに包まれていた。
アウラティカはともすれば追憶の中に落ちて行きそうな自分を揺り戻す。作ることに慣れた微笑を浮かべて男を見上げた。
「こう呼べるのはもうこれで最後なのね。宰相閣下」
「いつでも呼べばいい。貴女が呼びたいように」
「それはできないわ」
否定の言葉が言った人間と言われた人間のどちらをより強く苛んだのか。沈黙は密度を増して横たわる。
アウラティカは今まで生きてきた時間の半分以上の時間婚約者であった男を、それ以上直視することが出来ず目を伏せた。

彼女の即位が決定されるにあたって、クルースはウォルザに一つの打診をした。
それは、現宰相であるセデウスを女王アウラティカの夫としてクルースに寄越すことはできないかというものである。
二人が子供の頃から仲がよかったということとセデウス自身の有能さに重きを置いた父王の提案にアウラティカは内心幾分かの期待を抱いていたが、ウォルザからの返答 は当然と言えば当然、セデウスを自国から出すことはできない、という内容だった。
セデウスは単なる王族ではない。ウォルザにとって欠かすことの出来ない人材なのだ。
おまけに宰相として働いてきた三年間、既に彼は国内の様々な機密に関わってしまっている。
そのような重要人物を他国の女王の夫とすることは、いくら友好国相手であっても、国として飲めない要求であった。
セデウス本人の希望はアウラティカを傍で支えたいというものであったが、現王であるセデウスの父も即位予定の彼の弟もそれについてはきっぱりと反対を述べた。 政略結婚というのなら代わりに第三王子をアウラティカの夫とすることもできるという返事に、彼女は感謝しながらも丁重に断りを告げたのである。

道は分かたれた。
それはアウラティカにとって、不思議とこれから自分が即位するということ以上に実感がない事実であった。
大人になった自分がセデウスと共にいないということ、いずれ誰か別の夫を迎えるのだろうということを上手く想像できない。
まるで半身を取り去られたような欠乏感がただ彼女の内部に広がっていた。
政略結婚が王族の常だということは分かっている。それを否定する気は毛頭ない。
だから、今までがきっと幸福すぎたのだろう。
大人になれば幸福になれるのではない。それは最早過ぎ去った子供時代にこそあったのだ。
アウラティカはこみ上げてくる涙を堪えて、もう一度セデウスを見た。
「今までありがとう、セデウス」
「…………貴女に女王が務まるのか? 何も知らないのに」
「貴方が教えてくれたわ」
「あんなものは破片でしかない。王となるならばもっと多くの清濁を抱え込まねばならぬのだぞ」
「ええ」
男の言葉は、彼女の覚悟の強さを問うているようだとアウラティカは苦笑する。
彼にとって彼女はまだ子供であるのだろう。そのことが少しだけ嬉しかった。温かな時代がここには残っているような気がする。
けれど、もう甘えていられない時が来たのだ。守られるだけの小さな王国を出る時が。
変わらぬ木漏れ日が子供の楽園を光と影に塗り分ける。
祝福を浴びるように彼女は天を仰いで―――― 大きく嘆息した。
本当は泣いてしまいたかった。女王としてそれが許されるのなら。
だがそれは見せられない弱さだ。自らを貶めセデウスを苦しめるだけの。
兄も姉も、やがては父も、そしてセデウスまで失って、アウラティカは王となる。
どれ程苦しくても顔を上げて歩んでいかねばならない、その初めがきっと今なのだろう。
「大丈夫、セデウス。私はやれるわ」
「アウラティカ」
きつく目を閉じ涙を押し込むと彼女はセデウスに笑いかける。
割り切ろうと、そう思ったばかりにもかかわらず、彼の苦渋に満ちた瞳に隠しがたい熱がこもっているのを見て胸が熱くなった。
彼女もまたずっと恋をしていたのだ。
それが幼い子供の愛情だとしても彼を愛していた。
そして、この恋はここで終わる。
大切な宝石は宝箱に仕舞いこまれ、一人の道が始まるのだ。
「大人になったら迎えに来る」という彼の約束が守られなかったのは、決して彼のせいではない。
ただそういうものだったと飲み込むしかない結末だっただけだ。
一輪だけ風に揺れる花のようなアウラティカの手をセデウスは歩み寄って取る。
喪失を拒絶する意志が男の目には燻っていた。
「アウラティカ、もし……」
「何?」
男の言葉は続かない。握られた手だけが熱を帯びている。
至近で見つめあう瞳に子供であった頃より通じ合えない何かが潜んでいる気がするのは何故なのだろう。
そのことがひどく哀しいことに思えてアウラティカは首を横に振った。
遠くで鳥の声が聞こえる。
軽やかなその声にかつての自分たちの笑い声が脳裏で重なった。
確かに触れ合っているこの時、けれど随分遠くまで来てしまったという実感が二人の間に満ちていく。
セデウスが眉を寄せながら手を離すと、それは決定的なものとなって彼らの中に沈みこんだ。
もう、子供の声も聞こえない。
小さな王国は彼らを守らない。
だから大きく息を吸って―――― アウラティカは微笑む。
いつか彼の妻となる日が来たらどんな顔で笑おうかと昔鏡の前で練習していたのだ。
その練習を生かせるのが今になったということに身を切られる思いがあった。
けれど、痛みを堪える精神とは別に、彼女の花の顔は笑みを浮かべる。彼が息を詰めるのが気配で分かった。
「さようなら、セデウス」
愛していた、と言葉の続きをアウラティカは飲み込んだ。彼を見上げ、答が返ってこないと悟ると踵を返す。
そうして彼女は、振り返らず二人の王国を後にする。
一人になったアウラティカが三ヵ月後、女王として即位した時、セデウスからは野花を集めた小さな花束が贈られてきただけだった。