アウラティカ 07

禁転載

油断していたとしか言いようがない。
ダセルカのみを意識し、ウォルザへの警戒を怠ったアウラティカとクルース諸侯の判断は、後世「暗黒期にある国としてはあまりにも無用心だ」と批判されることに なった。東の河岸を中心に軍を割いていたクルースは、最低限の軍備しか置いていなかった南西からあっさりつきくずされていく。
慌てて残る軍の移動を指示したものの、それら軍の到着をウォルザが待つわけもなく、進軍する侵略の矛先はまたたく間に国内を突き進むと、ついに城都を捉えた。

「陛下! お逃げ下さい!」
険しい怒号がアウラティカの耳を打つ。
けれど彼女はその時、城の窓に寄ったまま動けずにいた。
―――― 街が、燃えている。
城都を囲む城壁、そこを境に城に残っていたわずかな軍とウォルザの大軍とが激突しているのだ。
だが拮抗していられるのももう長くはないだろう。城壁があるといっても基本の兵力差は激しい。
ウォルザの軍が街の内部をも蹂躙するのも時間の問題だということは明らかだった。
動かないアウラティカの腕をクードが引く。
「城からお逃げ下さい! 東の領地に落ち延びて好機を待つのです」
「…………民が、死ぬわ。わたしの民が」
「みな、陛下に忠誠を誓った民です。陛下さえご無事でいらっしゃればいくらでも再起は図れます!」
女王を半ば引き寄せながらの騎士の言葉に、彼女はようやく振り返った。
相手を射竦める光が彼女の瞳には宿っている。いかなる感情の為か、震える声が女王の口から紡がれた。
「それでも死んだ人間は戻ってこないのよ? 忠誠を誓ったといって……幼い子らまでもがそうではないでしょう。
 そうまでしてわたしが生き延びてなんだというの? 王家の血とはそれ程貴いものだと本当に言えるの?」
「陛下!」
焦りを多分に含んだ厳しい叱咤はしかし、アウラティカを動かすことは出来なかった。
彼女は疲れ果てた、哀しげな目で立ち上る煙を見つめる。
「これは、わたしの過ちです。わたしの判断が甘かった……。
 だからこの責任はわたしが取らなければならない。クード、行って皆を逃がしなさい。わたしは城に残るわ」
アウラティカは窓から離れると、城の大広間へと向って歩き出す。
城門を破り、入ってくる敵が真っ先になだれこむであろう場所だ。
恐怖は不思議と無かった。
セデウスのいる国が相手ならば殺されないと思っていたわけでもない。
彼はきっと―――― 止めてくれたのだろう。自国がクルースに攻め込むことを。
けれど王との間に軋轢が生じていた彼の言葉は効力を持ち得なかったに違いない。
アウラティカは見慣れた城の天井を仰ぐ。
自分は、この時代を生き抜く女王としては力不足だった。
出来ることをやってきたつもりだった。けれどそれはつもりに過ぎなかったのだろう。
国の為にと一度は思ったにもかかわらず、兄と姉を殺された私情に駆られ、大局を見誤ったのだ。
その結果民の命をも巻き込んでしまったことに、ただただ謝罪の思いしかない。
ダセルカ相手ならともかく、自分一人生き延びてウォルザと戦おうなどとは考えもしなかった。
いっとき、街中を彼の国の凶刃が荒れ狂ったとしても、それは女王である自分が死ねばその時終わる。
いくらセデウスがおらずとも、ウォルザはそこまで残虐な国ではないはずだ。敗者を尊重し扱ってくれるだろう。
アウラティカは怒鳴り声がこだまする廊下を一人行き、ついに広間へと到着する。
自らの手で大きな扉を押し開き、空の玉座の前に立った。そこに一瞬、かつての父の幻影が見える。
昔子供だった自分に向けられていた優しげな瞳。
今は遠い瞳にアウラティカは微苦笑を洩らした。
「御免なさい、お父様……」
王であった父はもういない。母は数年前に亡くなった。
兄も、姉も、殺された。
他には誰もいない。アウラティカ一人だ。
そして彼女も、もう終わる。
クルースの王家の血は、ここで途絶えるのだ。

叫び声と剣戟の音が近づいてくる。
物の焼ける匂いに混じって微かに漂う血の香にアウラティカは眉を曇らせた。
両目を閉じる。閉ざされた視界に懐かしい人々の顔が浮かんだ。
―――― 少しだけ待っていて。わたしもすぐ行くから。
彼女は広間をゆっくりと扉に向って歩き出す。
姉の死を知った時に沸き起こった激情も悲しみも、今はどこにもなかった。
もう彼女は何も持っていない。生まれた時よりも何も。
そうしてゆっくりと死へ近づいていくアウラティカが広間の中ほどに差し掛かった時、ついに扉は乱暴に開かれた。

敵兵の持っていた剣が光を反射したのか、アウラティカの目に白い光が突き刺さる。
彼女は思わず目を閉じた。この後におよんでまだ自分の体を庇おうという無意識が少しだけ可笑しい。
閉じたまま両眼に一度力を込めると、アウラティカは目を開き直そうとする。
けれど…………たったそれだけのことが、何故かどうしても出来なかった。
一体何だと言うのか。
苛立たしげに眉を寄せ掛けた彼女は、ドレスの下に隠れる自分の足が微かに震えているのに気づいて愕然とする。
何も持っていないはずの自分のその様に、一瞬で心が冷えた。
結局 ―――― 怖いのだ、自分は。
死ぬのが怖い。直視できない。
自分で結末を選んだにもかかわらず、間近に迫る死に目を開けることができないでいるのだ。
何という度し難さ。許しがたい弱さだろう。
アウラティカは目を閉じたまま唇を噛む。自分の情けなさを強く恥じた。
これでは先に亡くなった者たちに顔向けが出来ない。せめて女王として毅然たる終わりを迎えなければ……。
彼女はもう一度目に力を込めると、意志の力で両眼を開こうとする。
しかしその時、彼女の名を呼ぶ透き通った声が、広間に響いた。

「アウラティカ」
その声は彼女の記憶の中、いつも隣にあった。
懐かしい声。失われた存在。もう二度と名を呼び合うことはないだろうと思った男。
「…………っ」
温かさに緊張が溶かされる。広間に漂う空気が色を変えた。
アウラティカは瞼を上げる。
恐れはない。時間が急激に巻き戻ったかのような錯覚に、彼女は自然と目を開けていた。
彼は、彼女に向かい合うように立っている。
見たこともない鎧姿、凛々しいその姿に彼女は少しだけ見惚れた。
たった二年会わないうちに、彼はこんなにも風格ある存在になっていたのだ。自分はこんなにも愚かな姿を晒してしまっているというのに。
それは別離の歳月を彼女に思い出させ、少し哀しくなった。
「アウラティカ」
彼はもう一度、彼女の名を呼ぶ。
熱のこもった響きに彼女は泣き出したい気分に囚われた。
幸福だった幼い頃が、彼の手を取れなかった少女時代が甦る。まだそれらに手が届くような錯覚が生まれる。
まるで死の間際に思い出す記憶のように、それは鮮明に心を焼いた。
アウラティカは一瞬の半分、過去の愛しさに目を細める。喜びと同量の淋しさが溢れかけた。
ただ見つめあうだけの時間。
ずっとこうしていられるのなら死んでもいいと、この時彼女はささやかに願った。



だが、彼の背後に武装した兵士を見つけた彼女は、鈍い痛みと共に刹那で意識を引き戻す。
しっかりしなければならない。自分はクルースの女王なのだ。
彼女は苦笑を浮かべ、敵将となった男に向かって問うた。
「宰相閣下、どうしてあなたが……」
「私はもう宰相ではない」
「……え?」
「一月前に前王に代わって即位した。今は私がウォルザの王だ」
彼は、何を言っているのか。
アウラティカは思わず凍りつく。
意味が分からない。何が起きているのかも。
彼は弟王との間に軋轢があった、それだけではなかったのか。
彼が王というのなら、この戦争は誰が指示し、行われたものなのか。
答を求めてさまよう視線が、男の持つ血に濡れた剣を捉える。
鉄にまとわりつく鈍い色の血。
それは、彼女の民が流した血だ。
彼は、彼女の民を殺してここまで来た。
その事実に、アウラティカは息が出来なくなる。陸に打ち上げられた魚のように、ただ喘いだ。
頭の中が真っ白になる。
何も分からない。考えられない。
ぶつかりあう名前のない感情。
それらに場所を譲って、アウラティカは意識を手放しそうになった。
しかしその時、よろめく彼女を背後から誰かが支える。
聞きなれた声が耳元で囁いた。
「陛下、お逃げ下さい。わたくしがこの場を引き受けます」
そう言って彼女を自分の背後へと押しやる腕。
アウラティカは信じられない思いで自分の騎士を見上げた。
「クード! どうして……!」
「さぁ、お早く!」
体を打ち据える声に動かされ、アウラティカは数歩後ずさる。
クードの肩越しに、冷徹な男の目が彼女を射抜いていた。彼女は二人の男が放つ殺気に押され、もう一歩を下がる。
女の手が彼女の腕を背後から引いた。険しい顔の女官が頷く。
「アウラティカ様、いまのうちに……」
「マトラ、でも」
女官の腕に強く引かれ、アウラティカはクードに背を向ける。上手く動かない足がドレスにもつれた。
―――― このまま、訳の分からぬまま、もう一度彼と別れなければならないのだろうか。
そんなことを思いかけた時、鉄の鳴る高い音と男の小さな呻き声が聞こえた。
アウラティカは振り返る。
彼が、心配だった。
別れがたかった。
だから彼女は彼を見て―――― そして、その場に立ち尽くす。
光を反射する長剣。
それを軽々と扱う彼は、女王の騎士を造作なく切捨て…………頬についた返り血を拭っているところだった。

亀裂が入る。
記憶にか、想いにか、年月にか。あるいはその全てにか。
失われたと思っていたもの。
けれど本当は彼女の中に大切に仕舞われていた全てに、深い傷が生まれた。
アウラティカは魂を貫く痛みに身を捩る。
そして、その痛みが過ぎ去った時…………涙を越える怒りが全身を走り抜けた。
瞬間で血液が沸騰するような思いに捕らわれ、彼女は叫びを上げる。
「何をしているの! セデウス!」
「当然のことだ。ここに来るまでも私はこうして来た」
冷然と言ってのける男は真っ直ぐアウラティカを見つめる。
強い目の光に、しかし彼女はもう懐かしみも怯みもしなかった。
なおも彼女の腕を引くマトラを庇うように一歩前に出ると、近づいてくる男を睨みつける。
「あなたがわたしの国に攻め込んだのね!? この国を滅ぼす為に!」
「そうだ」
「よくも…………、セデウス! よくもこの国を!」
「約束を守りに来たのだ。アウラティカ」
唐突な男の宣告。
何の罪悪感も感じていない響きは、誓いのように神聖ですらある。
アウラティカは意表を突かれて眉を寄せ、我に返ると混乱と怒りに大きく頭を振った。
「約束!? 何の約束を守るというの?」
「迎えに来た。約束の通り、今ここに、こうして。
 貴女はウォルザに来て私の妃となる。そして……この世界の他にどこにも貴女の居場所はない」

男は、堂々たる歩みでアウラティカへと近づいてくる。
理解できない、あまりの言葉に彼女は眩暈を覚えて体が傾いだ。
かつて確かに愛していた男。兄であり恋人であった彼。
しかし今は侵略者として現れた男だ。
国を滅ぼし民を殺した ―――― 憎い、仇。
その彼を許すことはできない。受け入れることなどできるはずもない。
当然のように彼女を得ようとする男をアウラティカは歯軋りして待つ。
体が触れ合うほどの距離に近づいた時、白い右手を思い切り振りかぶった。
だが、彼の頬を打とうと放たれた手は寸前で大きな手につかまれる。男の瞳が間近で彼女を覗き込んだ。
「離して! 裏切り者!」
「裏切ってなどいない。私は約束を守ったのだ」
「嘘よ! あなたの妃になどならない! わたしはクルースの女王よ!」
暴れる彼女の手を掴んでいた男は、その言葉に初めて表情を変えた。小さく溜息をつくと苦々しい、けれど残酷な微笑を浮かべる。
王は剣から手を放すともう片方の彼女の手をも捕らえた。顔を背けるアウラティカの耳に顔を寄せ、囁く。
「貴女が拒むというのなら、貴女の民を全て殺そう」
アウラティカは目を見開く。
魂さえも縛る呪いの言葉に彼女は戦慄し ―――― そして、小さな王国の女王は、王の手に囚われた。