アウラティカ 08

禁転載

かつて貴方はささやかな約束をくれました。
必ず私を迎えに来ると、そして幸せになろうと。
その約束がどれほど私を支えてくれたか、貴方は分からないのでしょう。未熟な子供の恋のことなど。
嬉しかった。
温かかった。
たとえ叶うことのない約束でも、その記憶はずっと私の心を守ってくれていたのです。

けれど、今私は思います。
たった一つの約束が国を滅ぼすのなら、私たちは出会わなければよかったと。
多くの民の命を犠牲に守られる約束に何の意味があるのでしょう。
貴方の名は汚名に彩られ
私は傾国の女と謗られただけ。
子供であった頃、深く結びついていた私たちは、今や愚かさを以って衆目に晒されています。
歴史の上において人々は私たちの生涯を喜劇と嘲るでしょう。
私たちの血よりもずっと長く、貴方の愚行と私の憎悪は残っていくのです。

愚かな人よ。
純粋であった方よ。
貴方は約束を半分だけしか叶えてくれなかった。
そしてもう半分で、貴方は私を裏切ったのです。



窓から見える庭には緑しかなかった。花を植えていないのであろう。アウラティカは暗く沈んだ目でそれらを見下ろす。
彼女に与えられた部屋は広い豪奢なものであったが、だからと言ってそれが嬉しいとは少しも思わなかった。
ウォルザの城において彼女の行動に自由は無い。今のところ部屋から出るにも王の許可が要るのだ。
唯一よかったと思うのは、マトラがクルースにいた頃と同じく彼女につくことを許された、ということだけである。
アウラティカは淀む息を吐いて、自分より二十年上の女官を振り返った。
「御免なさい、マトラ。こんなことになって……」
「それはもう仰らないで下さい、アウラティカ様。わたくしは貴女様のお命が助かっただけでもよかったと思っております」
「でも、クードが死んだわ」
氷片を砕き入れたかのような声は現在の彼女の立場を象徴しているようにも思える。
敗戦国の女王として連れて来られたアウラティカは、日を置いて戦後処理が済むと共にウォルザの王妃となることが決定づけられているのだ。
本来ならば、戦争によって入った亀裂を修復するかのような婚姻はしかし、この場合においては単なる人質であり略奪でしかない。
それはここに連れて来られるまでの間に出会ったウォルザの貴族たちが、彼女へと見せた嘲弄の視線で明らかだった。
アウラティカは鏡に映る自分の姿に目をやる。
黒いドレスは彼女が喪に服していることを意味するものだ。
蹂躙された祖国のため黒衣を着た彼女に、セデウスは物言いたげな視線を送ったが、着替えさせようとまではしなかった。
彼がアウラティカへと注ぐ視線は、確かな熱を帯びていながら冷え切っているようにも感じる。
別人になったとまでは思わなかったが、それは、彼女の知らない男の姿であった。
―――― 一体何が、どこから、狂っていたのだろう。
アウラティカの思考は最後にはいつもそこに引きつけられる。
彼女が女王として目まぐるしく奔走していた頃、彼には何があったのか。
小さな庭の中、優しく理性的だった彼がどうしてあんなことをしたのか、どれ程考えてもアウラティカには分からない。
ただ……理由を考えようとする度、あの時見たクードの死がちらついて、彼女の心にはどす黒いものが生まれ続けていた。
「情報が、欲しいわ」
「アウラティカ様」
「今更などと言わないで頂戴。自分でも分かっているの。けれど今は情報が欲しい……それがなければ何もできないから」
「何をなさろうと言うのです」
マトラは哀しげな目でアウラティカを見つめる。嗜めるというよりももっと切実な願いがそこには閃いていた。
「こんなことになってしまったとは言え、ウォルザ王はアウラティカ様と絆も深い方ではございませぬか。
 どうかクードのことはお忘れになって、ご自分が幸せになられることだけをお考え下さいませ」
「考えているわ」
「それならば……」
「考えているから情報が欲しいのよ! いい? マトラ。二度とあの男とわたしの絆が深いなどと言わないで。
 あの男がクルースを滅ぼした……。祖国の仇よ。それ以上でもそれ以下でもないわ。
 だから―――― 最早、わたしの幸福とは、あの男の不幸に他ならない」
煮えたぎる感情にアウラティカは拳を握る。
幸福など、まるで絵空事のような空想だ。
そんなものの存在を信じていられた自分こそが愚かだ。
もう自分は笑えないのかもしれない。かつて花そのものと称されたように屈託無くは。
だが、それでいいのだろう。非才の為国を滅ぼした自分はその罪を負うべきだ。
綺麗に整えられた爪が圧力に歪み、つきたてられた皮膚からうっすらと血が滲む。
それに気づいたマトラが慌てて手を伸ばそうとしたが、アウラティカは軽く手を上げて彼女を留めた。
「わたしでは無理だわ。ウォルザの人間はわたしを蔑んでいる。欲しい話などくれもしないでしょう。
 だから……お前が情報を集めてきて頂戴。その為にはどれ程わたしを罵ってくれても構わない。お前の人生を狂わせた、無能な女王と。
 そうやってお前はここの女官たちに同調し……信用を得るのよ」
「アウラティカ様…………。……女王、陛下」
マトラは苦しげな目をしばらく伏せていたが、やがて黙って頭を垂れ、王命を受諾する。
アウラティカは満足して頷くと血に汚れた自らの両手に目を落とした。
まるでそれは掻き傷のようにじくじくと痛み、自身の存在を主張している。
だが、こんな痛みでは何も足りない。
自分も、そして彼も、もっと苦しむべきなのだ。
「セデウス……」
一度はもう呼ぶことはないであろうと思った名を、アウラティカは消せぬ憎しみと共に呟く。
そうして彼の名を呼ぶ度に、自分が醜い何かに変わっていってしまうような、そんな気がした。

アウラティカがウォルザの城に連れて来られてから十五日が過ぎた。
その間、彼女はずっと部屋に軟禁されたままである。
セデウスが彼女の部屋を訪ねたのは二度きり。いずれも城に来たばかりの頃、様子見の為に顔を出しただけだ。
その時はどちらもアウラティカは沈黙を保ち、彼の顔を見ようともしなかった。
マトラが持ってくる情報はまだ決して多くはないが、前王であるセデウスの異母弟は病で急激に衰弱し亡くなったのだという話は早々に手に入った。
アウラティカはその話を聞いて目を細める。
「本当に病気であったの? 薬か何かが用いられたのではなくて?」
「分かりません。そう疑っている人間もいるらしいのですが……」
前王の死はどうやら一部の人間を除いて伏せられていたらしい。
均衡が崩れる時を窺いながら常に周辺諸国がお互いを探り合っているこの時代において、急すぎる王の死を隠蔽することはそれ程珍しいことでもなかったが、それに しては何か違和感を覚える。
それが何なのか可能性を思い巡らせて、アウラティカはすぐに気づいた。
普通、王の死を隠蔽する理由は、後継者の不在、混迷、或いは能力不足など、充分な力を揮える王がいない場合に行われる。
けれどウォルザにおいて玉座を継いだのはセデウスなのだ。彼の才は前王以上に他国に知れ渡っている。その即位を公表することでウォルザに有利に働くことはあれ 、損なことはないはずだった。
―――― それともそう思うのはアウラティカが何も知らない為であり、本当は伏せておくべき理由があったのだろうか。
即位して一ヶ月後、セデウスが行ったのはクルース侵略だ。
そしてそれはウォルザから見れば最小の被害で成功を見た。
彼の即位の隠蔽は、ではクルース侵略の気配を気取らせない為のものだったのか。
アウラティカはそこまで考えて、自分の考えの穴に自嘲ぎみに苦笑する。
本当にクルースを油断させたかったら、むしろ即位を明らかにすればよいのだ。そうすれば少なくとも―――― 彼女はセデウスを信頼していた。
彼が自国を攻め滅ぼし、彼女をクルースの玉座からウォルザに連れ去るなど、一月前の彼女なら思いもしなかったのだ。

アウラティカはマトラが下がった後も自らの思考に沈み込んでいた。
それは、何かに考えを巡らせていなければ色々なことに耐え切れなくなってしまうような気がしていたからなのかもしれない。
彼女は務めて冷静に、考えるべき事柄を列挙し始める。
「まずは、前王の死の原因……。何故、セデウスが即位したか、は、実力的なものかしら」
テーブルの上に置かれていた硝子の水差しには冷えた水滴がついていた。
白い指でそれを掬い取ると、アウラティカはテーブルの上に水で文字を書き始める。
「そもそも何故クルースは攻め込まれたのか……」
ウォルザは、クルースとダセルカの関係が悪化していることを知っていたのだろうか。知っていて好機と見て取ったのか。
だが……クルースは確かに平民のほとんどまでもが不自由なく暮らせる程豊かではあるが、国としては小国だ。
ウォルザははたしてクルースを手に入れて戦争に見合う程の利益が得られたのだろうか……。それともこれから搾取が始まるのか。
アウラティカはくずれかけた水文字から水滴を掬い取る。物思いに耽りながら水で綺麗な円を描いた。
「知りたいのか?」
不意打ちの声は彼女の背後から響いた。
アウラティカは椅子を倒しながら立ち上がる。
慌てて振り返った視線の先、扉の前には、いつ入ってきたのかセデウスが腕組みをして壁によりかかっていた。
遠慮のない視線が彼女に注がれる。アウラティカはどこから聞かれていたのか、内心の動揺を隠して男を睨み返した。
「何を教えてくださるというのかしら」
「貴女が知りたいことをだ。何故クルースを侵略したのか、その理由を聞きたいのだろう?」
淡々とした口調。
それはあの日、彼女を迎えに来たと言った時と同じものだった。
彼の手によって滅ぼされた祖国の名を、何の感情もなくセデウスが口にしたことにアウラティカは苛立ちを覚える。
けれど、幸運なことにどうやらその前の話は聞かれていなかったらしい。彼女は僅かばかり安堵を飲み込むと、皮肉げに唇を曲げた。
「是非教えて頂きたいわ。胸を張って口に出来るほどの理由があるのなら」
「貴女がいたからだ」
迷いのない即答は、そのまま彼女を突き抜けて後ろの壁にあたったかのようだった。
アウラティカは同じ表情のまま時を止める。
それは、予想だにしない、だが、心のどこかで分かっていた答だ。
形にならない記憶が、無数に弾けて消える。
彼女は答えられない。動けない。
今いるのは二人だけの庭園ではないのだ。
音の無い、他には誰も入れない歪な王国だ。
男はよりかかっていた体を起こす。
ゆっくりと彼女の前まで歩を進めると足を止めた。
大きな手が動かない彼女の頬に触れる。それを振り払うことさえ今のアウラティカには出来なかった。
「貴女がいたからだ、アウラティカ。貴女を手に入れるためにあの国を滅ぼした。
 国が、私から貴女を奪った。だから―――― 今度は私が国を、奪ってやったのだ」
アウラティカの頬から首、首から鎖骨を男の指が滑っていく。
節だった無骨な指先が触れた箇所から、彼の視線が注がれる場所から、そして呪いの言葉を聞いた脳裏から、劇薬を注ぎ込まれている気がしてアウラティカは眩暈を 覚えた。軽くよろめいた華奢な体を男の腕が引き寄せる。
―――― とても、息苦しい。
アウラティカは男を見上げる。
空気と、言葉を探して小さな唇が震えた。
「………………あなたは、狂っているわ」
「知っている」
子供であった頃、陽だまりのようだった彼の腕の中には、今は冷たい水が満ちている。
息は出来ない。音はしない。まるで小さな水槽だ。
その中に閉じ込められた彼女を、火を孕む視線が侵していく。
アウラティカは自らを支える男の肩にきつく爪を立てた。 傷が治っていない爪先から再び彼女自身の血が滲み出す。
それは、男の皮膚へと染み込んでゆき、暴かれる彼の血と混じり合った。
鮮やかな色。
花弁が持つ赤とは違う色は、生よりも死を思わせる。今の二人に似合う色だ。
ささやかな抵抗に、それでも男は彼女を解放しようとはしない。むしろ腕に力を込めてくる。
虜囚となったアウラティカは、彼の目ではなく二人の溶け合う赤色を見ながら呟いた。
「わたしは、死ぬまであなたを憎むわ」
セデウスは答えない。彼女を放さない。
陳腐な恨み言しか言えない自分が悔しくて―――― アウラティカはただ、視界を閉ざしたのだった。