アウラティカ 14

禁転載

交渉が決着をみた後、アウラティカは東部領主エトルスのもとに改めて別の書簡を送った。
それは未だ残る旧クルースの北部領について、連絡を密に取り、統治を共有できないだろうかという相談の手紙である。
北部領と東部領は繋がっているわけではないが、間にどこの国にも所属していない山を一つ挟んできわめて近しい位置関係にある。
今までは河を挟んで背後にダセルカ、正面にウォルザと緊張を強いられていた東部領地だが、ウォルザとの併合が決まった今、北部領地を援助する余裕がないだろう かとアウラティカは伺いを立ててみたのだ。
本来ならエトルスにではなくセデウスに頼むべきことだったのかもしれない。
けれど彼女は、自分でも狭量と分かっていながらどうしても、仇であり夫である彼に、滅ぼされた祖国のことについて頼みごとをする気にはなれなかった。
十日かかって戻ってきた書簡。
それに目を通してアウラティカは驚く。
書かれていたのは、意外極まる返答だった。

「セデウス様が既に、北部領地について手配なさっていたのですか?」
話を聞いたマトラもまた、口をぽかんと開けてしまう。アウラティカは無表情のまま頷いた。
エトルスから戻ってきた書簡にはいくつかの報告と共に「北部領地についてはウォルザとの交渉の時既に、ウォルザの文官数人と東部領地の武力を割くことで、 同様にウォルザ付属の自治領とすると取り 決められました」と書かれていた。
北部領地には領主はいるが、自然の要塞である高山に頼って武力はほとんど無い為、過不足ない決着と言えるだろう。
とうに終わっていた話。
けれどセデウスはそれについて今まで何も言わなかった。彼女に恩を着せるようなことを一つも。
東部領との交渉の成立について教えてくれた文官が、北部領についての取り決めに触れなかったということは実際、和平的決着に興奮していた彼に忘れられてしまう程 北部領が取るに足らぬ領土であるということの現われでもあるのだ。
だが、セデウスはその土地のことを見捨てなかった。自ら交渉の場において持ち出してくれたというのだ。
―――― 何故そんなことをしてくれたのだろう。
アウラティカはお茶の表面に映る自らの瞳を眺めた。
被征服者の感情を慮ったのだろうか。外交戦略の一つか。
無論その可能性は充分あるだろう。
だが、だとしても……
開け放たれた窓の傍、散りかけた白い花が揺れる。
アウラティカは厚い本の間に挟んだ一枚の花弁を取り出した。
僅かに薄黄色に変色したそれは、ある朝鉢の横に落ちていたものである。彼女が取っておいて押し花にしたのだ。
無垢なる純白の花はいつまでもその色を保っていられない。
けれどそれでもアウラティカの目に映る小さな花弁は……とても、美しく見えていた。

礼を言おうと思った。
けれどアウラティカはその日の晩セデウスが訪ねてきた時もその翌日も、言おう言おうと思いながら最後の一歩が踏み出せずにいた。
それは彼の態度が、彼女の言葉を受け付けまいとする空気を放っていたことも原因の一つであろう。
二人の間の亀裂は埋められるどころか、広がりはせずともその深さを声高に叫んでいるように、彼女には思えている。
本を読み、自習に時間を費やしながらも彼女が考えることは自然、セデウスのことばかりになっていた。
「自分は昔と変わっていない」と彼が言ったことは本当なのだろうか。
確かに初めて出会った時から一度別れた時まで、彼は常にアウラティカにとって「敵わない相手」であった。
何を考えているか読めない相手。先を行き、振り返って遅れている彼女に手を伸ばしてくれるような存在。
彼のそういったところにも少女のアウラティカは憧れ、尊敬と親愛の念を抱いていた。それは本当のことである。
けれどその憧れはただ、彼女が彼のことをよく分かっていなかったからという、それだけのことなのだろうか。
アウラティカの脳裏に冷ややかながらも熱を宿す彼の目が浮かぶ。
今も―――― セデウスの考えていることはよく分からない。分かるはずもない。
そして彼も、おそらく彼女の理解を求めているのではないのだろう。
知ることと理解することは遠く離たれた兄弟のようなものだ。
アウラティカは彼のことを知っても理解できない。心のどこかで理解してはならないとも思っている。
ただ……知らないよりは知っていたいと思うこともまた確かだった。
知りたい。
理解できない。
それでも知りたい。
―――― 果たしてそれは、誰かを悲しませる残酷さであるのだろうか。



最初に気づいたのは、食事の内容が変わったことについてだった。
全体の量が減ったわけではない。
ただ今まで出ていたパンの数が減り、代わりに肉や卵などの品目が増えるという変化にアウラティカは気づいたのだ。
はじめはそういう取り合わせだと思っただけだが、それが二-三日続くと彼女はさすがに不審に思った。
三日目の昼食時、給仕をするウォルザの女官に何が原因なのかと尋ねてみる。
それまでほとんど話したことのない女官は王妃から思いも寄らないことを聞かれて動揺したようだった。
けれど、迷った挙句感情を隠すと彼女は「今、国内では若干小麦が足りないのです」と口にする。
「小麦が? 不作だったの?」
ウォルザはクルースと比べて小麦の生産量は多くはない。
両国において農耕は共にユーエルスム河から水を引き、大規模な灌漑と共に行われているのだが、ウォルザの灌漑施設は七年程前に他国の侵略によって一度完全に破 壊されてしまったのだ。その時はセデウスの父であった王が何とか敵軍を追い散らすことに成功したものの、灌漑施設の修復は敵国の報復や何者かの妨害によってそ の後も度々難航した。その為セデウスが苦心して指示を出し、完全に施設が元通りになったと言われる今でも、小麦の生産量はかつて程には及んでいないのが現実で ある。
ただそれでも小麦が国全体で足りなくなってしまうというところまで行くほど、水が足りないわけでも天候が悪かったわけでもない。
何故なのか重ねてアウラティカが問うと、女官は本当に困った顔になってしまった。
「不作ではなかったと存じます。ですが、今は足りないのです。原因はよく分からないのですが……」
「あら……そうなの。教えてくれてありがとう。
 ね、実はわたしにはこれでも少し多いの。パンを含めて少し減らしてくれるように料理人にお願いしてもらえるかしら」
「かしこまりました」
女官はほっと笑顔になると一礼して去っていく。
その姿が扉の向こうに見えなくなると、アウラティカは微笑を崩して眉を寄せ、何事かを考え込んだのだった。

東部領地との交渉の時、アウラティカに書簡を依頼してきた文官の名はログスという。
平民出身ではあるのだが中々の才を示し城に登用されてから五年目の彼は、王妃に小麦が何故不足しているのかを尋ねられると目に見えて気まずそうな顔になった。
しばらく躊躇っていたが、彼女に譲る気がないと分かるとログスは肩を落とす。
文官の為の小さな執務室で、他に誰もいないことを確認し、彼は声を潜めた。
「実は、先だってのクルースへの侵略が原因なのです」
「あの戦争が? ほとんど被害はなかったはずでしょう」
「人的被害はそうでした。ただあの時、実はウォルザは糧食の一部を焼き払われたのです。こちらの油断だったのですが……。
 その影響が今出始めているというわけでして」
「焼き払ったなんて……そんな報告は受けていないわ」
侵略する軍に対し、生命線である糧食を叩くのは兵法の常套手段の一つだ。
しかし、防衛についていたクルースの軍はそのような手を打つまでもなく敗北した。当然アウラティカも初めてそんな話を聞いたのだ。
驚きに染まる彼女に、ログスはばつの悪い苦笑を見せる。
「軍ではありませんした。クルースの軍が敗れた後、近くの村人たちが降伏すると見せかけて……
 ―――― 数人、見張りの兵を殴り倒し麦の袋に火を放ったのです。
 幸いすぐに煙に気づき消し止めたものの被害無しとはいきませんで。お恥ずかしいことです」
話を最後まで待たず、アウラティカは硬直した。
彼女が城にいて対応に追われている間にそんなことがあったとは思ってもみなかったのだ。
恐怖によく似た感情が沸き起こる。
「それ……その、村人は?」
問う声は震えていた。
まず間違いない、そんなことをしては殺されてしまっただろう。
何故無茶をしたのか。村人の身で敵国の軍にはむかうような真似をしたのか。
じわじわと感覚が戻ってくる。彼女は歯軋りした。悔しくて仕方なかったのだ。
―――― 理由など分かりきっている。彼らも守りたかったからだ。
国を、生活を、平穏を。
自分だけではない、他の民を守りたかった。だから彼らもまた戦ったのだ。
だが、彼らの必死の思いにもかかわらず、アウラティカは何も守れなかった。国は滅びてしまった。
どれだけ自分が力のない女王だったのか。
彼女は過去に戻って自分を殴りつけてやりたかった。
何も見えていなかった。分かっていなかった。民を守る為の彼女の手は、結局彼らの命に届いていなかったのだ。

美しい顔に怒気さえ孕んで俯いてしまった王妃に、ログスは困ったまま、けれど少しだけ微笑んだ。
穏やかな声で彼女に呼びかける。
「ご心配なさらないでください。彼らは一時的に捕縛されましたが、進軍でその一帯を去るに伴って元の村に戻されました」
「……え?」
アウラティカは弾かれたかのように顔を上げた。
金色の瞳を限界まで見開いてログスを見つめる。
「戻された?」
「ええ」
「無事……なの?」
「勿論です。と胸を張って言うには、彼らの処罰や村からの略奪を提唱した者もいるのですが……。
 陛下によってその案は退けられました。『民への危害は進んで加えるようなものではない。略奪は恥ずべき行為だ』と彼の方は仰られたのです」
ログスは申し訳なさそうに、だが確かな信頼を主君へと抱いているが如き目で微苦笑した。
それはまるでアウラティカに王の偽善を非難されると覚悟しているようにも見える。
セデウスがどう振舞ったとしても、彼が戦争を起こしたことには変わりない。
武人であれば或いは彼の行動を高潔とするかもしれないが、そうではない見方をする者がいるものも当然のことなのだ。
そして、全てはそこから始まっている。
今のアウラティカとセデウスの関係は。
ログスはそれを知っている。アウラティカが実は王を憎んでいることを。
だから彼は、彼女が複雑な怒りを以って反論してくることを予想していた。いつかのように感情をぶつけられると。
しかし―――― 予想に反して、彼女はひどく哀しげな顔で溜息を一つついただけだった。
「そう」とだけ呟いて、アウラティカは瞳を閉じる。そして、驚くログスを気にも留めず、彼女は小さくかぶりを振ったのだった。