アウラティカ 15

禁転載

戦争に正義があるのか、と問われたら人々はどのような答を返すものなのだろう。
艱難辛苦を味わったことのある人間なら、まず「そもそも人の世に本当の正義はあるのか」と返してくるやもしれない。
絶えず人が人によって殺されていく時代だ。正義の存在自体が不確かだ。
このような時に、その問いこそが無意味だと彼らは思うだろう。
それでも―――― 戦乱の中知謀を操り、剣を取って立ち動く者たちはそれぞれの正義を、或いはそれに代わるものを胸に抱く。
ある者は主君の正義を信じ、ある者は己の野心の為に、そしてある者は信念の為に、拭い去れぬ厭世を押し込め相争う。
彼らは皆、知っている。正義より確かで、正義より理由を問わない現実を。
知っていて語らない。それは今の時代、あまりにも救いがたい事実なのだから。
人は平穏を愛しながらも、敵を求め争いを好む。
戦乱の終わりを望みながら、復讐を煽る憎悪に身を焦がす。
それは変わらぬ人の性だ。切り離せない本性だ。
だから今日も、人は死ぬ。
街は焼かれ、国は滅びる。
奪いしものが奪い去られ、育てしものは蹂躙される暗黒の時代。
―――― それは五大国と呼ばれる強国が他を圧倒し確立されるまで、クルースの滅亡後もゆうに六百年間もの長きに渡り、大陸を支配することとなったのである。

その報告は積み重なる書類の中のささやかな一枚として、けれど見逃せない内容を以ってセデウスの前に呈された。
王はそれを手に取り軽い驚愕に目を瞠った後、執務室に控えていた文官に問い質す。
「これはどういうことだ?」
「何か問題が御座いましたでしょうか」
文官の男はかしこまる。その様子におそらく彼は何も知らないのだとセデウスは判断した。
ならば直接本人に尋ねようと彼は結論づける。
すなわち、何故アウラティカは先だって受けたウォルザの損失を補填するよう動いたのか、その理由について。

「別に理由はないわ。何か問題でもあるのかしら」
彼女の反応はある意味予想通りのものだったから、セデウスはつい苦笑してしまった。
彼に追いつこうと必死で背伸びをしていた昔の彼女の姿がそこに重なって見えたのだ。
だが、それを正直に口にしては彼女は嫌な顔をするだけだろう。今のアウラティカは昔の話をされることを非常に嫌がる。
推察するに過去との決別を態度として示すことで、彼のことをもまた拒絶しているのだろうが、それをどうこうしようとは思わなかった。
過去も今も、掛け替えのないアウラティカとの記憶は、彼の中に仕舞われている。
一つも損ねられていない。色褪せていない。おそらく彼が死ぬまで。
そして彼女自身も―――― 決して手折られて枯れるような花ではないのだ。
昔のようには笑顔を向けられなくなったことも、彼の心中に言い様のない鈍痛をもたらすが、それは当然のことだろう。
この結末は最初から分かっていた。
軍を挙げると決めた時から、アウラティカは一生彼を憎むであろうことを彼は既に知っていたのだ。

ログスから話を聞いたアウラティカは、その日の内に何通かの書簡を書いた。
セデウスはクルースを占領はしたものの城都以外の統治は監督の文官と武官を数名派遣しただけで、 基本的にはクルースの役人に細かい民政は任せたままである。
彼の言葉を信じるなら、国はアウラティカの付属品であり、それ自体が欲しかったわけではない。
だから必要以上に手を入れる気がないのかもしれないが、ならば彼は知らないことだろうと思って彼女は手を打ったのだ。
陽気に恵まれていたクルースは小麦の在庫が充分にある。
その為数ヶ月前、余剰分を輸出するか保管するかの伺いが女王であった彼女のもとに届いていたのを、アウラティカは勿論覚えていたのだ。
彼女はその時、ウォルザが小麦に不自由していないことを確認すると、万が一の為に保管を指示した。
油断ならぬ他の国々に取引を申し出るより、国内に留め置いた方がいずれ役に立つだろうと思ったからだ。
もしウォルザがその在庫に手をつけていたなら今の不足はないだろうと思った彼女は、クルースに残る領主や文官に書簡を書き、合わせてログスに指示を出して在庫 をウォルザ本国に流通させるよう手配を希望した。
かつての女王からの願いをクルースの人間は困惑を以って迎えたが、東部北部の両領地までもが和平を結び属領となった今、事を荒立てるのは得策ではないと、結局彼 女の指示に従って迅速に動いてくれたのである。

全てが整ってから報告を受けたセデウスは、予想通りアウラティカを訪ね、理由を問いだしてきた。
「何故、助けた?」
という男に彼女は冷めた視線を投げかける。
「別に理由はないわ。何か問題でもあるのかしら」
「無い。聞いてみたかっただけだ」
「あなたのせいで民が困っているのでしょう? わたしはあなたには恨みがあるけれど民にはないわ。
 それに ―――― クルースの民もウォルザの民も、最早一つの国の、わたしの民であるのだから……。
 王族としてすべきことをしたまでです」
出来るだけ感情をさしはさまずアウラティカは答えると、そのまま男から顔を背けてしまった。
別に何を言われたいわけではない。
感謝をされたいわけではないし、揶揄を受けたいわけでもないのだ。
出来ることがあったからしただけだ。それとも彼女を無力な女として扱う彼の目には、今回のことが余計な手出しとでも映ったのだろうか。
アウラティカは逸らした視線の先にたまたまあった彫像を見つめる。
鳥の形を模した白い石の像から見たくもないのに目を離せないでいる彼女は、部屋の空気が動いた気配を感じ身を硬くした。
微かな足音。
他には誰もいない。
彼がゆっくりと近づいてくるのだ。
触れられることは嫌ではない。
ただ、無性に苛立ち、悲しくなるだけだ。
叫びだしたいような、何かに当り散らしたいような情動に囚われてしまう。
だから、男が彼女の手を取った時、アウラティカは自分が息を飲む音を誰よりも近くで聞くこととなった。
彼女の手よりずっと大きな手。
初めからそうだった。初めて会った時から。
少年の手は幼かった彼女の手を宝物を包み込むようにそっと触れてきたのだ。そして今も。
セデウスは恭しく取った妃の手を見つめる。
彼もまた初めの日を思い出しているかのように瞬間遠い目をすると、愛おしげに白い滑らかな甲に口付けた。
「感謝する、アウラティカ。クルースの女王よ」
男が呼ぶ称号に精神が震える。
もはや形骸でしかないその呼び名を何故、今呼ぶのか。
アウラティカは彼を見ぬまま低く沈む声を漏らした。
「……わたしはもう女王じゃないわ。それに王たる力もなかった」
明らかな苦味は全て自分自身に向けられたものだ。
惨めさが脹脛まで浸しているような気さえする。
礼を言われたことに少しだけほっとする反面、行き場のない熱が彼女を苛んだ。
セデウスは一瞬沈黙する。
何を言われるのかと緊張を漲らせる彼女の手に、男はもう一度口付けた。よく通る声を抑えて囁く。
「ならば、貴女に出来ぬことは私がやろう」
かつてと変わらぬ声。
染み透る響きにアウラティカは揺り動かされ、男を見上げた。
二人の視線が真っ直ぐにぶつかる。
断裂に似た小さな空白が生まれた。
「何を? してくれるの」
「貴女の望むことを。そして出来ぬことを」
「でも、あなたはわたしの国を滅ぼした」
「ああ」
「恨むわ」
「分かっている」
断片を、重ね合わせる。
噛みあわない傷を並べていく。
まるで滑稽な喜劇のように、当たり前のことが抜け落ちた残滓だけが光を帯びた。
アウラティカは細く息を吐く。
「あなたは酷い」
「酷いだろう」
「愚かな選択だったわ。国も子もこれから先、皆を呪縛してしまう愚行よ」
「そうだな」
「間違っている」
セデウスはそれには黙って首を横に振った。
―――― これ以上は無理だ。理解できぬ亀裂の先だ。
彼の目と沈黙にアウラティカはそれを悟る。捕まれたままの手が強張った。
男はそれに気づくと、女の手の指に自分の指を重ねて絡める。
離れていくことを禁じるように、憎しみと不理解が二人を繋ぐようにきつく握った。
思いを込めて指に加えられた力。
アウラティカはふと孤独を感じた。
「忘れないで」
「忘れない」
おそらく命が消える最期の時まで、約束は守られるだろう。
初めの約束。必ず迎えに来るといった約束をも彼は守ったのだから。
セデウスは死の瞬間まで、己の為したことも、彼女の憎悪も忘れない。全てを抱いたまま静かに息を引き取るだろう。
鮮明な確信を抱いてアウラティカは目を閉じる。
そして強く男の手を握り返すと―――― 「ありがとう」と呟いた。

ウォルザの侵略によるクルース併合は、血と裏切りが蔓延る大陸にあっては極めて迅速かつ穏便に、決着を見つつあった。
ゆっくりと時間をかけて一つになろうとする国は或いはこのまま何もなければ、将来の大国の一つとなれたのかもしれない。
だが、その未来図は一通の書簡によって打ち砕かれる。
ウォルザの大臣の一人から内密にクルース東部領主へと届けられた手紙。
それが届いてから二週間後、東部領地は交渉で得られた全ての結論を破棄し、再びウォルザへと宣戦を布告することになったのである。